山中鹿之介

この巨大な供養等が出雲大社やこの辺りを支配し
大国主を拝んでおられた尼子一族が1566年に1年半耐え抜いたの兵糧攻めだが
内部家臣の寝返りを
進言した大塚の言葉を信じ、忠義の家臣宇山久兼を
を誅殺してしまったのは、急逝した尼子晴久の息子 義久
そのせいで内部がガタガタになり士気が下がり
毛利に開城したという

その後も山中鹿之介は様々な調略や戦術で盛り返すも
1578年に兵庫県の上月城で降伏、毛利へ連行される途中
差し違えようとしていると悟られたのか
危険人物とみなされ、岡山のあいの渡しの川で暗殺される

裏切りと出戻りなど
様々なことを繰り返してきた武士達
の違いの正義と、家臣を守るための保身や選択
今の学者の答えでは届かない、当時の風がこうして今も生きている

御霊は個性を保ち残るわけだが
月に向かい
七難八苦を与えたまえ
と祈ったとも伝わり
月岡芳年も浮世絵に残す。

堀尾吉晴さんが富田城にきて
今の
松江城を1607年に作るも
完成間近の4年後の亡くなる

元は信長の家臣だったそうだが

信長にジェノサイドにあった
1581年の天正伊賀の乱で落ち延びたりした
地侍や忍、鉄砲の雑賀衆(鈴木重家の弟)
40人を傭兵としてを抱えたらしい

鈴木重家の末裔は今の僕の古武道の師匠
重家は義経と藤原寝返りにより源に攻められ
東北の立館でともに亡くなる

その弟の際が雑賀孫一で、実鈴木ともさんと言い
戦国武将の末裔の会や
戦国グッズやイベントを行う

家紋は八咫烏

数年前ふと知らずに山門をくぐり
どんどん導かれるようについた山奥の静かな供養塚
物寂しい場所で
供養に来る方も少ないのだろうか

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