師匠

写真は独学
写真はな
写真家先生に習ったり
こう撮ろうなんか撮ったら
自分の写真じゃ無い!
そんなのはダメだ!
先生の写真のコピーですよ
写真機はな
所詮カメラは道具よ
機械に撮られなさんなよ
モデルな
バーンと瞬間!
鷲掴み!だ
ファインダーなんか見るな
バーン!だぞ
いいオヤジだったな
ユージンは
日本に来てフォードやコマーシャルの撮影をユージンがしてな
そこころ俺はトッパンの写真にいてな
彼が撮った写真の現像を全て任されてな
本当にいいオヤジだった
千葉の五井の反対集会な
あの
小和田雅子の爺さん
水俣病引き起こして
知らないと言っていた
あの窒素の江頭な
あれにヤクザかチンピラやとわれ
暴行されてカメラ壊されてな
目もあまり見えなくなって腰やら痛めてな
でもな俺は後悔してないし恨んでないと
言ってたな
すごいオヤジだったな
サイパン沖縄と戦場の悲しみや
死に向かう日本の子供達をファインダーで見て
いたたまれなくなり
戦争をして殺しているのは俺じゃない
戦争やどもが悪いんだと
写真のほとんどは処分されたらしい
兵士が感傷的になる、都合が悪い写真だというわけだ
そして砲弾を受け
瀕死のユージンは数年間カメラは撮れず
ある日ふとセントラルパークを歩く子供たちの後ろ姿を写す
そんな1枚から
貪欲にまた人が目を背け
みえていない時間にレンズを向け
最後は水俣に住み写していた
そんな写真を通じた生き様や
ドキュメンタリーな先達の教え通り
どんどん行動!
とにかくバット!押す
人も波も同じ
みえない風
波動がある
カメらをぶら下げあてもなく
オーストラリアやバリ島にいたのは1992-1998年ごろ
やがて海へ波へ行く
彼らのことを思い出し
子供の頃パラオの海の家に数日いた
その時のオヤジの死を知りパラオの墓前で
話しかけ
感覚が降りてきた
命がげで写真を撮りたいがどこでしょう?
湾岸戦争か!
でも他力で人の血を都合よく写して本や金にするのは違うな
命か
どこでしょう?死の可能性が高い場は
うみか?
なみだ!
波の中は死にそうですね
決めた
波の中へ行きます
と誓ったのは
2002年5月
パラオの墓前に行こうとしたのは2001年9/12
成田空港まで行くが全てフライトはキャンセル
パラオに電話すると
アリー(もしもし)
ビンラディンのせいでね
何よピンラディん?って
いつでもいいのよ
大丈夫よ
あきをは死んじゃって
悲しいけどね
みきがね
来れるときにきなさいね
私たちは待ってるから
いつでもいいの
ありがとうね
体気をつけてね
そしてよくとし墓参りにいく
これね
あなたの車と携帯電話ね
息子たちになんでも言うのよ
命ははかない
今こうだと思うったら
逢いたい人には逢いに行く
なりふり構わず
後悔しないように
だから波へ向かった
パラオのオヤジがいなかったら
14歳のとき、あの日家に泊まってなければ
一緒に船でパラオの海を走り
色々食べさせてくれ、大きなシャコガイを
お土産に持たせてくれた
海のような大きな心の家族
死を通じて波へ向かい
死と隣わせが人には大切だと知る
存分に楽しみ
海で大笑いし
ひたすら根性で泳ぎ切り
シャッターを見ないで押す
写真はドキュメンタリーだ
後でいじり写真にわざと嘘をつかすのは人間だ