茅ヶ崎で生まれ育ち
茅ヶ崎で生まれたが、小さくて死にかけていたので
横浜の警察病院にみかん箱に入れ運んでくれたおじさん

そんなおじさんとおじいは、目黒の家で水槽がたくさんある
下が工場の家に住んでいた
部屋一面、左右ベッド以外は大小20本近い水槽と水の音
世界中の熱帯魚が泳いでいた

おじいはもの静かで器用な人で、先の戦争は満洲
次の大東亜戦争はビルマに行き
習志野の鉄道2連隊として訓練を受け
鉄道や暗号無線の仕事をしていた

戦後1年たち、甲板のめくれた引き揚げ船の空母葛城で浦賀についたそうだ
部隊は全滅と聞いていた家族だったが
部隊長達と終戦間際タイに入っていたので捕虜にはならず
帰れたそうで

隊長や戦友とは80代になるまで戦友会が解体されるまで
苦楽を共にした仲間を大切にした、優しい人だった

大正から昭和の写真を見ると、ザイルで沢登や剱岳など家族親戚と山やスキーを
楽しんでいた。曾祖父さんは戦争中で行けない仲間には、正二君とのぼりに名前を書いて
写真を撮っていた。ドンコー会と名付けていた(ゆっくりしかいけませんの意味で)
ひいじいーさんもユーモアがある

彼らは海もよく行ったがウェットなどない時代
スキューバで潜りはしなかったようだ。

何はともあれ戦後はサニトラに工具を積んで米軍の基地や
帝国ホテルの厨房を作る新橋の祖母の会社に入り
職人としていき
休みの日は息子のおじさんと僕を真鶴の岩場や、野沢温泉に車で連れて行ってくれた
幼い頃の自然のガイドだ

何を注意するわけでもなく、僕も海に慣れていた子供だったせいか
遠くでタバコを燻らせ見ているだけだった


見えるところで遊ぶんだぞ
とだけ言っていた

岩場で牡蠣殻で足を切ったり
真鶴の岩の漁港がコンクリートがで固めはじま
そこに生えた苔で滑って肩から腕をすりむき血が滲んだり
子供の頃はゴムゾーリしかなかったから
脱げるは滑るは、足がはみ出て切ったり
怪我をしながら気をつけるようになった

夏になると今度は父方の田舎が下関にあり
青いあさかぜと言う名前のプレートをつけた機関車にひかれた
寝台車で行くのが楽しみだった
汽笛を鳴らしながら、2段ベッドに潜り込む

朝になると、車掌さんの独特な声や汽笛とレールのつなぎ目の音で目覚めた
その頃になると柳井あたりにいた

家は城下町長府の乃木希典の家の近くの屋敷から
壇ノ浦を見渡す場所に移動して40年亡くなるまで住んでいた
朝になると、長府にすわる魚の行商のおばあから
ウニやオコゼやひらそ(ぶりの子)など、好きな魚を選ばせてくれ買い
山への階段を上り、海が一望の家で食べるのが楽しみだった

朝食後はそこからバスと汽車をまた乗り継ぎ一時間ほどで
海沿いの駅から15分ほど歩いて
漁港から漁師さんの船で無人島へ毎日通うのが
さらに楽しみで、透明な住んだ海で1日中、素潜りでたこやトコブシや魚を網で
生け捕っていた
水中メガネがないと意味がない!とばかりに
メガネがないと海には入らなかった

帰る頃はうつらうつら
潮を吹いた肩の顔を客車の窓やドアの金具にぶつけ いて!っと起きては
また寝ながら、時には生捕りの小魚をビニール袋のバケツに
電池式のぶくぶくをつけて山の家まで帰った
よく歩いてよく思いバケツや荷物も一人で持っていたなと思う

子供の頃から海の家は大嫌い
シャワーなんか浴びる習慣もなく
なんで同じ世代の子供が魚も少ない汚い砂浜の海で
あんな人工的な海の家にいるのか、不思議だった

全く別な人種なくらい、口も聞かずひたすら
両手に網に腰の海水パンツに拾った鉄のアワビおこしをさし
水中の岩から岩へ飛び移り、ふやけるまで魚を探していた

泳いでいるベラなどは早くて捕まえれないので
岩上や岩の蔭にいるカサゴやアイナメが獲物だった
自分でも子供ながらに魚の逃げる方向と、後ろの網を下構え
獲るのは上手いと思っていた

海のはじまりはそんな頃から

少し冷たい響灘の海で
ふやけるまで一人で遊んでいた

よく親も見えない場所や色々島の周りに行っても
心配しないでほっぽらかしだったな
と思う
今の親ならライジャケをつけ(これは帰って危ないんです)
浮き輪までして過剰な保護と浮状態にしますが

波が来たらライジャケは潜れず、かえって沖に運ばれたり
浮いたまま波に叩きつけられ、体の制御ができず

子供はある程度泳げる6ー7歳くらいからは
波をくぐる方法や慌てないことなど親が教えて
ライフジャケットは僕はつけない方がいいと思います
自分の泳力を超えてもライジャケや浮き輪は分からず
流されてしまうことも多々あります

自分で潮流や位置が変わったなとか
気をつけなくなる
海や自然との間合いが変な道具のせいで
曖昧になるのが危険なのです

そもそも泳げない子が川や海へ行きべきではないのです

以前にも書きましたが
生まれて初めて喉が閉まるほど溺れたのは32歳と遅咲きです
ずいぶん気をつけていましたが

冬のハワイのノースショアの波は人知を超えた本物でした
何もできないとはこのこと。
(泳力とむぐる角度や心構えが弱かった)体力ではなく
経験と強い気持ちが足りなかった。
沖へ流され、不規則な波に巻かれ
片手には今では考えられない大きなカメラのケース
足ひれと半ズボンのウェットに水中めがね
酸素ボンベはずるく
海の真髄を知るには無酸素だ!と
飛び込んだ、オーストラリアのバーレーへッズに
続く2回目の波の旅
2002年の冬

死にかけたとはこれだと雨の海岸で笑い
波にもまれ酸素が吸えず
喉からヒューヒュー、海面に顔を出し立ち泳ぎで吸うたびに音がして
肺に空気がいかない
これには焦り、穴が空いたのかと片手で喉を触った
穴なんか開くわけがないが
全く初めての体験で
波は不規則に止めどなくくる
沖の波にそれでも行こうとするが
全くこの葉のように波に巻き込まれ
苦しいなんてもんじゃない
しまいには、足のスネと腕が痛く動かない
きのうていし?なんだこりゃ

それでも波は待ったなし
巻かれては顔を出し空気数が苦しくなるばかり
もうおてあげ
これは息を止めた方が楽だな
と 
そんなことしたら死ぬのだが
頭がショートし
人間は弱いから溺れるときはこう思うんだな

とゆっくりと時間が流れ始めた
空に向かい甲賀のひいじいちゃん助けてよ

と念じると
なんとなく空に黒いスーツにひい爺さんが笑っているが
ネクタイが黒じゃなかった してない?
その瞬間
僕はハワイの沖で独おおわらい
あーこれは弱い僕で
だめだ人間は二ついるから
つよい自分でいかねば

あーこれは喉の気道が閉まり
肺に空気がいかないんだ
腕や足は乳酸だ
オーストラリアのライフガードの本で読んだな

これはダメだ落ち着いて肺に海水が入らないように
口を押さえて帰るしかない
出直しだ!
と妙に元気になった

波に乗りながらブルブル震え
鼻水や海水がダボダボ垂らしながら
海岸にへたり込む

完敗!
乾杯!
全く泳げなかったオーストラリアは湖
ここは本物!海だ!
ショック!

いやー泳げないな無理なのか?
ラジオ体操第一で入った俺がばかだった
これはアスリートの世界だ
生きてるな
よかったなー安心だ地に足がついて

そんな独ごとを海岸でぶつぶつ行っていると
サングラスのライフガードが近づいてきた
なんだか偉そうに
よく帰ってきたな!
と言った

なんだ見てたのか
イエローモンキーだと思ってなめてるな

携帯電話忘れた
と返すと
ちっ!と行っていなくなる
くそ
もっとあーいう態度の人間にはブラックジョークを返したいが
頭がうこかず、英語力もなくとっさに返せなかった
そこが自分が溺れた原因!だな

雨の海岸に巨大な虹が出ていた

祝福?
でも大事なことが一つきた

今でもはっきり覚えている

もう一度ここで泳がないと
お前は潰れるよ

声がした
自分のどこかからか


そんな霊的な天の声ではなく
中から胸のあたりの感じだった

波を泳ごうとパラオの墓で思った感覚と同じ
あの確信めいた感覚

えー
また泳ぐんですか
ここでー
とまた笑う



そしてウェットを着たまま
膝から軽く血を流し
濡れた体で車を運転し
途中のパン屋で、すみません、溺れて
床濡らしたらごめんね入っていいですか?
甘いデニッシュを二つ買いたいんですが

もちろんだよ
と店のおじさん

だいじょうぶかい?

はい
ごめんね

いいんだ
またな
気をつけてな

宿に着くと暗い少し冷たいシャワーを浴びる
膝の血を絞り出し、砂が入ってないか擦る
よく帰ってきたな
地に足がつくのは安心だな
いや溺れたな
自信がなくなったな
泳げないのか俺な?
など頭からシャワーを浴びながら
さっきまでの事件を走馬灯のように思い出しては
心を落ち着かせたかった

木でできた宿と木々は雨に光り
共同のリビングで
デニッシュを食べコーヒーを入れ

自分の小さな部屋の2段ベッドに潜り込み
どっと疲れ頭も乾かさずに一時間ほど寝た

起きると雨はさらに土砂降り

シェアしていたカップルはまだ帰らない

行きますか!
よし
静かに準備をし
赤土のぬかるんだ道を避けながら
レンタカーの鍵を回す

なんだかドラマだな
こりゃ
大丈夫か俺は
一時間で泳げるようにはなってないから
完全に溺れ巻かれるが
行くしかないと腑に落ちた

車を路地にとめ
山のような砂浜を越えると数人の女の子のサーファーとすれ違う
ハーイ
とだけ言葉を交わし
冷たい雨の海岸を目指すと海は轟音
さっきよりさらに、海は荒れている
おや
どうするか
目を凝らすが
沖にも誰もいなかった
少し見ていたが

確信がきた
よしこれは海が守ってくれた
正直にきたからこれでいい
来なかったら、にげていたらこの感覚なない
お前はちびっこだから
海のゴミになるだけだ
どこか自分に泳げそうな子供たちのいる海で練習をし
これから2週間は仕方がない
海へはいくが
このレベルは無理で死ぬだけだ
日本で水泳の訓練をしなおして
来月も来るんだから
それでいい

自信は戻らないが確信的に
また腑に落ちた

すぐ近くの海岸へ行くと
おきにおきに子供たちがいた
割と綺麗な波で
泳いで潜って逃げれそうだ

そしてここで流されながら五時間
泳いだ
途中大波が目の前で壁になると
今朝溺れた恐怖の感覚がまたどこにあるやら
胸に集まり、呼吸が乱れる
いけない、いけない
これはダメ!
いけ!大丈夫!と叫んで沖へ

結局何もとれなかったが

満足だった

向こうからアジア人がパドルしてきた
さっきから何してんですか?
こんな沖で
およいでるんですか?
えー
いたかしますよ

危ないですよ
うわ!

大丈夫、俺も何してんだかわからないんだ
ありがとうね

笑う

握手してください
と海の上で右手同士で握手して
その日本人の若者と別れた
こんな場所でサーフィンしている日本人はすごいね

帰るかな

ここに五時間もいて泳いで波をかわせ
サメも来なかった

夜賑やかな宿のメキシカンナイト
というメニューで世界からきたバックパッカーが
ビールやタコスを食べ賑やかだった
僕は独り普段は飲まないお酒
タヒチのヒナノビールを飲み
今日1日の生きるか死ぬかの日を味わった
メキシカンの味?というと
大したことなかったかな

溺れた海へ行ってよかった
とにかく
そのことに尽きる
コウロギかなんか虫の葉音の
緑の中の木の家で
その夜は深い眠りについた



その14年後から真っ暗な日本の夜明けの海を
撮るようになる
御神酒を巻いて、ゴミを拾い
祝詞を捧げ、貝をたてるなど
魔術の世界



そしてこの頃
2003年にフィジーで出会ったハワイアン の結婚式の写真を
頼まれ、この海で泳いぎました
不思議でした
当時の自分と生まれ変ったような自分
海の景色は変わらないが
何か少しゆとりができたようでした
同じ宿の同じ部屋を行ってから泊まりたいと
行くと当時のオーナーのおばさんがいました
同じ部屋は残念ながら満室でしたが
敷地の別な部屋が空いて
見に行っていい?
もちろんよ
と当時のままの部屋に行きました
シャワーもリビングも当時のままでした

ここは懐かしい場所
ハワイの王族の祈り場
白い貝殻という海岸

真珠湾攻撃隊の若者たちがこの空からハワイに入り
命をかけた時間を海は見て知っています
不思議ですね

今は平和です
無理に命を潰した若者たちのおかげで
わざと命をかけれる幸せを知りました

ハワイに行くとまづ真珠湾へお酒を持ち
54人のパイロットと潜水艦の若者の名前を読み上げ
にお祈りに行きます




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