1994年ごろのウブドの川

ウブドは特別な場所だった

もっと昔はよかったのだろうが、まだ道も未舗装もあり凸凹で

土産物や小さなロスメン(簡易的な宿が)道路地の奥まで所々にあった

高級ホテルもなく、唯一チャンプアンというホテルとその渓谷ぞいのレストランが好きだった

入り組み高低差のある山の村の

至ところで夜はダンスのショーをしていた

日本人もあまりいなくヨーロピアンが多かった

わずか数百円で寺院の付近でチケット立ちんぼのような人が売っていた

その完成度は素晴らしく、修行を重ね、この村と土地の伝統、コミュニティーのかよう人の心

うまくいえないが、何か自然霊のような感受をも受けるがままに、ここでしか生まれない音と舞だった

初めて見たのはレゴンダンスだった

夜は屋台で隣の旅のドイツ人と話をした

仕事はなんだったか?1ヶ月休んで旅をしていると言っていた

ご飯に黒いぞうむしが沢山いたが、おばちゃんが手ではらい、はいよ

2人で笑い、食べたのを覚えている

子供のころの日本もたまに入っていたから

なんともなかった

昔の日本のようで、そこに神様のがガジュマルの木やあちこちに

花や供物と煙の上がる線香

インターネットもスマフォもない穏やかな時間

こうして思うと、なんでも先にわかってしまい、宿も海外から見て予約してしまう

旅とはかけ離れた、常に先々が担保された工程はどうしたものか

宿な必ず取らずにチケットだけで世界中旅をしていた僕には

どうでもいい話だが

あの行ってみた感じや空気、不安やワクワク感

車を走らせて歩いて、良さそうな雰囲気のいい部屋を見せてもらい

値段の交渉をしながらの旅

もう戻ることはできないな

と思うとあの日々は人と人の触れ合いや

思いやりがあったなと思うし

昨今の歩いてまで携帯ばかり見ている人々には

こうした心の景色が見れずにいて

外からの自然な情報も受けれずに

新幹線で移動したような、点から点だけの移動になり

感覚や嗅覚や触覚を曖昧に弱らせていく

地図を広げないから方向感覚もないまま目的地だけに着く訳だ

当時は皆、自分の足やロンリープラネットという生の声をまとめた地図がたくさんあるガイドブックや

聞きづてで宿やいい場所を見つけていた

旅人の訓練と冒険があった

今もガイドブックは買わないし、ネットで調べない

旅の豊かさが半減し、人間の野生性や感覚や自然観も退化させていることは間違えない

自分の感覚で行動し失敗も繰り返し、時間をかけていた

宿が見つかるのが夕方なんてこともよくあった

あてもない旅はオーストラリア、バリ、ハワイ、マウイ、オーストラリア、タヒチ

からやがて波の旅への変身した

オーストラリアバーレーの海岸では偶然いとこに会い

ハワイで溺れ

また翌月今度はマウイで溺れかけ

ヨーロピアンのゲイがハッモックを揺するモルジブは怖い

やがてフィジーの離島で人を知らない太古のままの波を見つけた

霧がかかる山には妖精がいると聞き

これだ!これこれ!この生きた心地!死ぬ心地!が本物の海だ!

以来フィジー で武者修行をしたのは2002年から

川の音に誘われモンキーフォレストの宿から散歩をしていると

渓谷から子供の声が聞こえたので近づくと

エビを釣っていた兄弟がいた

一昔前の日本と自分を見ているようだった

思い起こせば、旅に行けば行くだけ

波と風の出会いには、必ず不思議な人の出会いもあった

あまり英語も話せず

酒も飲まずバーもいかず、人けのない場所ばかりにいた

80年代ずっと六本木の防衛庁の前の、モータウン音楽のダンスフロアのお店やディスコや芝浦のGoldで働いて

いたからその反動でしょう。

もう夜の世界は卒業したんです。

海や聖地の祈りばや旅の移動手段や時間や怪我しないか、死なないか?とか

敵がきたらやっつけるか!とかご飯のことだけ考えている、誰とも話さない日もある

日本ではおしゃべりですが。喋らない時は数日誰とも話さない、声を出さない。

観光地は全く行かない。

海は命がけで常に緊張するので、気力を調律し体を調整ケアし、お詣りと散歩以外は本を読み休んでいます。

イタリアでもピザも食べない、パスタも仕方なく2回だけ、洋食が好きじゃないと最近わかった。

ケバブかインドカレー

だからバリは食事が合う、人々が常に祈っている崇高な場所

先祖を敬う、ガルガン、クニガンなどお盆である

ナシチャンプルを毎日、ピーナッツソースの焼き鳥のサテを屋台で食べ

砂糖なしの薄いコピを飲む

一人が好き

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