魅力

明け方
琵琶湖と比叡山を模して

松尾芭蕉の句碑もある上野の忍の池と寛永寺を作ったのは
伊賀の瀧寺を菩提寺とした,徳川のお伽集、元津藩 藤堂高虎

その無足人(地侍)は松尾芭蕉の父
祖父は信長と戦い討ち死に

裏では徳川を操作する天界が作らせたという

藤堂高虎の江戸屋敷は
駒込南谷寺(なんこくじ)
赤目不動を祀る

江戸時代には井伊藩にこちらの忍び40名を返せと書状も残る

それは1581年の信長の死ぬ1年前に起きた伊賀の乱 

この日を境に伊賀の民や地侍や忍達の人生は
変わらざるえなくなる

神社,仏閣が焼き払われ、女子供も容赦なく切られたと

そして全国に伊賀者、忍は身を隠し
傭兵として雇われ散って行く

その藤堂高虎の位牌があり
徳川に背を向けるように位牌を
祀るのが伊賀の赤目滝にある
天台宗延寿院

ここが忍の基地であると
感づいた信長に焼かれながらも
灯籠だけは当時を知る

最後に伊賀の人々や忍が
ろう城した
柏原城もすぐ近くにある

最後は全滅ではなく
徳川に現況を書きつづった
服部家
そして何らかの工作の上
猿楽師により信長もあまりに抵抗がすごく
降参しない伊賀忍に手を焼き
毛利達の動きも心配になり和睦したという

話は飛びましたが

信長が比叡山に火を放ち
700〜800人の僧侶,女子供を殺戮したのは1571年

琵琶湖にも
湖畔にも伊賀町、甲賀町があったそうです

京都の北東部、鬼門にあたために最澄建てようと!と言ったのが始まり
そもそもは大山っっっくいのかみ (山神)を古来から祀っていたが
788年に中国系の薬師如来を根本中堂を建ててから安置

日本の中心,日本式仏教の編み出された地
当時の最澄さんを先導に
鎌倉時代以降は法然、日蓮、栄西,親鸞が修行したのに
日蓮宗と天台宗は口喧嘩を越え闘いに
群れになると
よろしくないいいのか?

当時のあまたの仏教考案者のあこがれの地

なんらかの彼らを
惹き付けざるえない時間と
何かがあるようです

今の延暦寺はどうでしょうか?

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