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海へ独り義を尽くす

日本の川が昔に比べ汚れている
人工的で、流速も早く、取りつく島がないコンクリートの
蛇行しない垂直な壁は

植物や生物が住めず、自然な濾過や分解が出来ない
人間も落ちたら、桃太郎の婆様のように川岸で洗濯もできず
流れていく
ドイツはかわを加工する際
わざと蛇行させ生態系(ビオトープ)を作るらしい

以前、川のレスキューの資格を、水上のネイチャーナビゲーターたちさんに教わり
勉強した

川はどう水流という、水分子が高いところから低いところへ
流れる独特なスピードがあり

同じ場所から先に落ち流された人や物は
次に落ちても追いつくことはない
同じ流速が動いている訳だ

どんなに泳いでもわずかしか縮まず

川で溺れている子供を見ても
マニュアル上は飛び込むな

川では絶対に足をつくなと書いてある

漁師の梁のように下流で待ち受けるか
流れてくる人や物を網ですくうか?
ロープを流れてくる手前に投げるか?

レスキュー隊が持つ腰につけた
先に重りがある、忍者の武器 鎖ふんどうとお同様
普段は巻いてあるロープを流れてくる人の位置を予測して
いない下流のいちに投げる

投げてもコントロールミスもある
届かない場合いもある

ロープはバッチリでも
または流れてくる人が掴めなかった
など
流れている人の冷静さと泳力も大事
パニックではどうにもできない

非常に難しいのが実情だ

海ですら限定した海水浴場だけでも地変だから

川のライフガードがいればだが
日本の全ての川には不可能だ

では溺れたらどうするか
流れに任せて浮いている

周りを見ながら、大岩に向かい流されながらゆっくり
方向づけをする(泳ぐことも大事だがまづ泳げない)

岩や、這い上がれそうな岸や
流れのゆるそうな場所へ
向かい下流に向かい斜めに泳ぐ

これは川に入る前に
鳥瞰図のようにもしもの時はとイメージし
よく観察しておくこと

レスキューでは上流に斜めに
泳ぐと流されながら岸につく訓練(体験)や
 
岩の後ろは水が巻いていて
流れがないから、体を岩に向かっていれると
すぽっと入り激流でも、水深が浅ければ岩の真後ろに立てる
この場所をエディと呼ぶ

川のレスキューは日本にはなく
スイフトレスキューと呼ぶ救助方法はアメリカ製

僕が21際の時に習った海のレスキューの本場はオーストラリア
これは本当にキツかった

朝イチでプールでクロールで400m9分切ること
上手なスイマーは朝飯までが
僕はキツかった

海ではランスイムランという
海の沖を起点に数百メートルを三角形に走って泳いでタイムがある8分だったか?
走って、沖まで泳いで、また戻る
サメもいる海は怖い!

伝統的な方法は腰にロープをつけて
海岸の巨大なリールで数人で引っ張る
危険なレスキューで今はやってるのか?

溺者を前で抱え背中越しに引っ張られるが
体を微妙な角度で真っ直ぐしないと
くの字に折れたまま、水中へ引きずり込まれ
気を失うほど海水を飲み
溺者などはなしてしまう
それどころではない
助けたはずの自分が溺れている

何よりも
疲れた体の朝イチのプールは精神的にもきつかった
結局5日間の最終日に9分丁度で合格したが

あの経験が海で自分を救ってくれた

人生であんなに辛いことはないと思ったオーストラリアの体験が
自分が自分を救うのはその10年後
その時は片手で泳ぐなど微塵もなかった

この青い透明なフィジーは
どこまでも透明だった

水中から見る
沖の深くなるサンゴ礁のがけの先は濃紺で不気味だった
写真は波を沖へ向かってかわして
同時に水中で反転して海底にへばりついて写した1枚

海も大地で
海中にも渓谷も山もあると知る
この海底は目の前にそびえる緑の霧のかかった山につながっている

山にはレッカという妖精がいる
山も海も恐ろしい原始の
力が出ている

波も容赦ない

島ごとくるまれるような大波

オーストラリアの人生1番!の辛い体験も
ここでは常に塗りかえられていった

限界もない美しさ
と所詮かなわない大きな力

その怖さに勝つというよりは
怖いとおもいつつも、人間には手に入れられない
様々な大切な事象を胸で知る

こうして今、お気軽に都会にいて
あの日の怖さは尊い物で
胸の片隅?胸のどこかに焼き付いている

修験道と同じく黙って
独り海へ入る

危ない、無理だと
先に感じ
助けてくださいではなく
お願いしますと祈りを捧げ

恐る恐る入っては出ること

そして戻れたら
海岸で一礼

神を大切に

鎌倉由比ヶ浜
頼朝を神輿に地位を上手に奪った
北条義時の調略と、起請文まで書いたはずの
叔父の三浦一族の裏切りで

この地で自害した
武勇の人で侍警察の長官 和田義盛さん一族

今も住宅街に残る
和田塚は、日蓮宗だった関係で
日蓮の髭文字ので書かれた供養石碑がある

お水とお酒とおにぎりを
たまに持参し心を合わせます

結局、北条も最後は、部下にしたと思っていた、坂東侍に滅ぼされる

土地の所有欲の争いはこの世も同じ
御成敗式目にも長男が継ぐと書かれ今だそのままだ

でも1条は素晴らしい

神を敬えばすれば自然に霊験があらたかに
神社を修理し祀りを盛んに行えば
人々が幸せになる

供物を絶やさず
古来からの慣習をおろそかにしないように

関東御分国にある国衙領(コクガリョウ)や荘園の地頭と神主は
このことをよく理解しなければならない

神社を修理する際
小さな神社は自分たちでなおし

手に負えない大きなものは幕府に報告すること
内容を調べ上げ最良の方法をとること

神とは遠い存在のように思えども
ご自身のご先祖と思われたら良いのです

そんな話を以前聞きました

海の水は濁り海藻やビニールや発泡のゴミで汚れていました

風や海の水には寿命がないとしたら
全部見て聞いてますね

浮世絵

昨日の七里ヶ浜は
突風の海

昔は野球もできたほどの海岸も
羽つきができるくらいしか海岸が消えた

プリンスホテルのあたりは昔は美しい
渓谷の森だったようで
砂がないのは
護岸工事やテトラの影響がもう隠しきれない事実

200年前、北斎や弟子の北寿や広重さん初め
皆さん、海の神島 江ノ島を遠望する美しい海岸に
徒歩で訪れ心象を絵に残した

写真がない時代
浮世絵に想いを残した彼ら

絶滅したあの風景を
風と海だけが知っている

周波数

稲取

自分がここと溶け合うというか
海の1コマ1コマの異空間というか

人間という物が水に溶けこむ瞬間がある

違う時間にうまく体を滑り込ませる

稲取

25年で一度だけ恐る恐る泳いだ
2度目は大岩のうらに隠れ波をやり過ごし
飛び込むもカメラケースから水が入り撮れず

毎回、龍宮神社には御神酒と卵をお供えし
お掃除をしています

なんだかここに来たら
ご挨拶をしないと落ち着かない

海神

稲取は雨と海は荒れていた

岬には古来から龍宮神社が鎮座し
海の神がが舞う

波と人は同じ

海の波は1コマ1コマの細かな映画のような絵が高速で
つながるから、動いて見えるだけ

人も同じかな

光と影が波の中を射抜いて
水素の分子の中を高速で動くのが乱反射や透過という

人には影がある
波にも影がある

透明なのに何故か?

影は過去

Chacott



Chacott Photo Shooting

おかげさまで皆様との
素晴らしい時間を1枚に

プリント、額装しお届けいたしますので
暫しお待ちください

ありがとうございました。

南の島のひと

クック諸島
ラロトンガ島

バイクで荷物を背負い適当に探し
泊まった宿のオーナーは
ウクレレミュージシャン

暖かな笑顔で自然に生きる人
奥さんはアーティストで
宿の中や庭には
マンタや貝の絵が珊瑚の島と一体になった美しい空間

部屋の2階から望む海

泳げるかな?
と観察していたけれど
リーフで水深が浅すぎて危険で
泳がないと決めた

最も数日前
波に飛ばされ毒ウニの針が30本近く足に入ったままで
水が入らないように絆創膏を貼ったままだ

喉に詰まりそうにでかい
ショッキングピンクの化膿止めを見て
毒だな!と笑いながらゴミ箱の投げ

椰子に葉が揺れる穏やかな
午後のゆったりした風が

焦らず流れに乗る
写真と同じで撮れるときは撮れるから
焦らず一呼吸してコーヒー飲んだらいいよと
他伝えている

判断は自分でする

海のおきて
海辺の人との時間はいいものです

斬る

写真機は所詮機械

ファインダーは見なくても写る時は写る

1枚の写真はドキュメンタリーであること

ただそれだけでいい

地球海

年々海は汚れている
海の水が多少動き流れに乗り分散され薄まっているだけ

海底には物凄い量のゴミがあると
映画プラスチックの海で見た

正直、日本中の海岸や岩場に行くと
拾いきれない、大なり小なりゴミの山
ライター、漁具、漁網、発泡スチロール、ペットボトルを軸に
それはすごい!

ゴミにしても厄介者扱いされる被害者で
元は新しい時は大切にされたが
いざいらなくなると
邪魔者でポイされる

僕の所感と実際の体験では
人も少なく綺麗な水はどんどんと遠くへ自ずと行かねば
なくなってきた

所詮青いボールの海
ゴミはあっちからそっちや
海底に沈み見えないだけ

やがて海はゴミで埋め立てられ
浅くなる

人気を避け
透明な水を探しに南へ南へ向かいました

当然ライフガードもいません
フィジーの最果ては絶海の孤島
驚く透明度で水がないように見えます

あの島の沖で一人大波が
リング状に島伝いに来たときの怖さ
絶望感に潰されそうな感覚

実際に邪心や曖昧な自分が居座り
大波に巻かれた苦しさ

全て胸に集まるのだと知りました

藁もない
浮き輪もない
誰もいない遥沖で独り

泳ぐしかありません

死にたいか
生きたいか
だけ

今でもあの怖さは体に残ってます
 
海はただそこにあるだけ

海には意識がというか、海という一つの「もの」ではない
何かがあり

見ているという」感じです

そうした場所を古来の人は聖域と感じたのでしょう

疲れ果て海から戻り、海に立つ小屋で波の音を聞いて
1日の過ぎ去った波の中のことを思い出し
静にしている時間が懐かしい

夜明けと夕暮れだけ僕は泳いでいます

所感は正しい 「所感」

海の始まりは育った環境が大きく影響する

父方の爺様は年で海に行ったことがない
母方の爺様は山登りの人
車の運転が好きでいろいろな海や、川や
スキーをしにチェーンを巻いて長野の雪山へ

でも僕とは山の登りや
簡単に歩ける高尾山などの場所にも行ったことがない

器用な爺さまは家中にでかい手製の水槽があって
部屋には世界中の魚がいた

魚や鴨を丁寧に捌く

鉄砲好きな近所のおじさんからもらった
体に鉛の散弾銃が入った青首の鴨の味は忘れない

都会にいてもいつも水の音と魚がいた
自然と魚が好きになり

海も海水浴場でない
いわばの水が澄んだ場所へ連れて行ってくれた

彼らは
近江琵琶湖から大正の初めになぜが築地の波除神社の前に
移民した先祖

関東大震災で揺れに揺れ
焼けて引っ越したと
当時五歳の爺様にきいた

ひいじいさんと(僕からはひいひいじいさん)
九州へ行く日もかかり汽車で旅をした話を聞いた

広島の厳島神社で写した写真
きっと今も観光客を待ち受ける
写真屋のおじさんのおかげ

カバンを持ち和服の厳しい顔つきの曾祖父さんと
少し改まり前で手を組んで、学校の制服の様な格好の爺様は八歳くらいか

住んでいたであろう
近江八幡の戸籍にある付近に
何かしら彼らの残像がないか
訪ねたことがある

ひいばあさんはよく煎餅をくれた
古い日本家屋で、勝手に門を入り
虫を探していた

そんなひいひい爺さんのお墓へ

築地で焼け、蒲田の奥(萩中)へ大八車で
石塔や魚の供養塚も移転し
石碑には檀家として、尽力した名前の中に
ひいひい爺さんの名前がある

所感では
墓は通信所でここには何も居ない
日々思うことが十分な供養であり
それでいいと思う

墓は骨がある
ない場合もある
骨は場所によっては
粉にして土に返す

バリでは風葬、土葬、鳥葬もある
バリのお坊さんや知り合いは
死んだら所詮意味は同じで、
方法はどうでもいい、海が好きなら椰子のみ骨を詰めて
流します。
結局必ず家族のもとへまた戻るんです

言っていた

墓は
おそらくは生き残ったものの
感情的移入、通じやすくなる一つの手段と方法
当時の思い出に飛ぶ効果のあるモニュメントである
また寺がある以上、供養を請け負うという証拠になっている

そんなことを考え
何かおにぎりや水を備え
何かを感じ、意識に微細な電気がくるか?
さっきまでと何かが違うか
じい様がくるか?笑
冷静に見極めようとした

正直なんだか帰りの車で
すっきりした
それは何かというと来たから
祓われたとかでは無く

暖かな感覚があったから
墓に実際来ることも大いに意味がある

昔のこの浄土真宗の寺の住職は
大きな敷地で、家族みんなでゆくゆくは
入ればいいですよと
言ってっていたそうだから
大きな敷地を水屋の前に購入したそうだが

代が変わると
そんな橋は反古された

長男しか入れないという、墓を売りつける為の
死んで家族を離散させる悪しき習慣と

仏具屋も墓石屋も寺の住職はぴったりくっつき
必ず推めてくれる

結局は墓の値段もコロッと変わり倍になる

法要の時もっと包んでくれたら
安くしてもいいと思うじゃないですか?〜
といいはなつ

笑いながら
それでも住職か!いい年して
というも

全く恥じないお坊さん

そんな坊主の言動を逃げ
じい様からは浄土宗から天台宗へ移動

親鸞さんは
独身を通す宗教者の暗黙のルールを反故し
普通に妻帯した斬新な人

死んだらは鴨川に投げて魚の餌にしてくれ
というも
弟子が祭り上げ
様々と塗り替えて
変質させた

善人も悪人も
南無阿弥陀仏だけで救われるから
それだけでいいと凄い発想と発明をした

日本人は古来より神の国
神とよぶ尊い全てへ
寄り添いながらこの国土(山川海木々)とある

生まれた時は神社へ行く
七五三まで神社
お祭りは神社
初詣も神社

たまにお釈迦様の命日に
甘茶をかけ

死に際はなぜか仏教

家には神棚と仏壇がある

僧は
亡くなった家族を急に馴染みもない
極楽浄土なるハッピーな場所へ見送る先達を
買って出る

そうでないと、怨霊になる?さまよう?成仏できません
と匂わせる

そもそも家族であり
怖い幽霊でも悪霊でもない
死んだらホトケの構図とまな板の鯉の
状況に飲み込まれる日本人

あの世もでこれから修行などかわいそうですね

家族としては
そんな謎の場所よりも

もし請け負うなら
日々の暮らしとともに、いつでも近くにいて見ていてください
いつでもきてこらっせ
ありがとね、ご苦労様の送ることばだけでいい

スッキリします

私がお釈迦様の修行者となったおじいさんを (急に弟子?そうしないといい世界で幸せになれない様な雰囲気を作った上で)
49日、100か日と精進してお経を呼び引導しますので
安心ください

つきましては、2日間の法要でその法要も今回は含めさせていただき
本当は50万円を30万円で
お車代はマ〜イイです

戒名代はまた別になりますが
はい
・・・・・

凄いですね
言い慣れてますねご住職
スッと入ってきました
・・・・・

爺さんはね
墓石もお棺も白木だろうがベニヤ
だろうが、残ったものの家族の見栄だと言っていました

なんで弟子になる?
お釈迦さんはそもそも
霊魂なんてなく
一人旅をして悟ればいい
と言っていたのにですね

・・・・・・

そんな矛盾にそまりながら
目を背けた日本人

葬式も戒名もいらないと
いった白洲次郎さんと正子さん

ソフトバンクは
白犬にしらとじろう、しらとまさこと名付け
やゆっている

乗っていた60年代の白いポルシエ911sをトヨタに差し上げた
所感で
「こういう車を作りなさい」と

もらった理念が
真逆なトヨタは正直大迷惑だったでしょう

こいいう車とはおそらく
僕も以前1970年のポルシェに乗って感じるのは

美しいデザイン
空力を考え、車の裏面をフラットに覆い
ハンドルからアクセルから路面情報が伝わる安全性

自由を感じる運転の楽しみ
野生的で動物的
動かしたようにしか動かない感覚がたまらない

「所感」

メンテナンスしやすいエンジンやミッション

事故の際もぶつかっても、乗員を守る剛性と溶接(ベンツもポルシェも事故の車を
徹底的に研究した)

動けばいい
常に新作で小出しして売る販売方法ではない哲学
車メーカーの顔がそのメーカーの理念

今のポルシェはそんなものないですが

話は戻りますが
いいことが書いてあったので載せます

「先祖の話」柳田国男

いわゆる神葬式によって祭りをして居る家々で無くとも
死んで「ほとけ」などと呼ばれることを迷惑に思つた者は昔から多い筈である

日本人の志としては
たとへ肉体は朽ちて跡無くなってしまうとも
なほ、此国土と縁は断たず、毎年日を定めて子孫の家を生き通ひ
幼い者の段々と世に出て働く様子を見たいと思つて居たらうに

最後は成仏であり、出てくるのは心得ちがひででもあるかのの如く
頻りに遠いところへ送りつけようと態度を僧たちが示したのは、あまりにも一つの民族の感情に反した話であつた。

しかも僧侶たちは、念仏供養の功徳によって、死者は必ず極楽へ行くと請け負っておきながら

一方では盆のたびにこの世に帰ってくる亡魂のために棚教をよむと言う矛盾した行動をとってきた

仏教は六道輪廻の妄執を断ち、そこから解脱して彼岸に到る道を示す教えである

そのことは十分に承知したうえで、なおかつ死後も霊魂は此岸であるこの世のどこかにとどまり
年間に日を定めて子孫の元を訪ねて饗応を受けるという盆行事などにみられる伝来の信仰は

容易に消えることなく今日までつづいてきた。

どいいう上手な説き方をしたものか
二つを突き合わせてどちらが本当かといふような論争は終に起こらずに
ただ何と無くそこを曙染のやうにぼかして居た。

いずれも先祖崇拝を中軸とする仏教と本来縁のないような宗教心意が
仏教を受容しはじめてから千数百年む過ぎた今日もなお
私たち自身のなかに強固に残留しつづけている事実について
所感をのべたものである

神道の成立
高取正男

武蔵さんの命日が近い

雨が続き
街のあれやこれや、が忙しく
海にも行けないので

宮本武蔵さんの

空の巻より

1部
・・・・・武士は兵法の道をたしかに覚え
其外武芸をよくつとめ
武士のおこなふ道
少しもくらからず

心のまよふ所なく
朝々時々 (ちょうちょうじじ)おこたらず

心意二つの心をみがき 心意=(意のこころかろく、心のこころおもく)
観見二つの眼をとぎ

すこしもくもりなく
まよひの雲の晴れたる所こそ
実の空と知るべし也

実の道を知らざる間は、仏法によらず
世法によらず

おのれ、おのれはたしかなる道とおもひ

よき事とおもへど
心の直道よりして
世の大かねにあわせて見る時は
其身、其身の心のひいき
其目、其目のひづみによって

実の道にはそむく物也

其心をしつて
直ぐなる所を本とし
実の心を道として
兵法を広くおこなひ

ただしく明らかに
大きなる所をおもひとつて

空の道とし
道を食うと見る所也

空は善有 悪無し
智は有也 有=う
利は有也
道は有也
心は空也

正保2年5月12日
寺尾孫丞殿

新免武蔵

武蔵は熊本より西
金峰山(吉野金峯山より修験者を呼び、侍や忍?たちを訓練した山で山頂には役の行者もあり、数年前にお参りに行きました)
其麓にある曹洞宗霊巌寺の奥の院の洞窟に篭り
坐禅修行した

武蔵は細川藩の剣術の先生もし
金銭面など多くのサパーとを受け

現代でも車で来てもこんな山奥の奥をよくぞ見つけたな
と思う洞窟
藩老沢村大学の手引きでこの洞窟に来たのであろうと言われている

武蔵は諸国を旅し
戦いを挑まれたが真剣は使わず小太刀や木刀で戦い
江戸の塚原卜伝や一刀流の道場には足跡がないとも言われるが

それは今の僕たちにはわかり得ない事

いずれにしても
観音様を祀る、今は木立で見えないが、当時は有明海を望む
今も独特な気の立ちこめる6mほどの開口と奥に数メートルの岩窟にこもり
生死の線を生きた武蔵さんは凄い人だと思います

こうして数百年後
日本や地球の隅々まで知れ渡る生き様と
自然観、宇宙観を観得し感応した訳です

島原の乱の戦いにも参加し
敵の投石により足に重傷をおった(余談ですが甲賀忍、伴さんはじめ数人もキリシタンの島原城へ潜入し、兵糧を捨て、旗を奪い、火を放った工作をした記録がある)

其翌年
五十七歳の秋に細川忠利の招請に応じ
熊本に来たが
この頃は病気がちであり

おそらく足を引きずり(骨折か?)命をここで整理し安寧の地として
ここで五輪書をまとめあげた様です

そんな忠利さんも54で急死しますが
後を継いだ肥後守光尚さんも
引き続き武蔵を懇切丁寧に保護したとあり
武蔵さんのお人柄も伺えます

癌を患い
幾度も霊巌洞に戻るも
心配した藩主たちの説得で、千葉城跡の居宅に戻り
特に3名の細川藩の若い侍の看護と優しさの元

5月19日逝去
行年62歳

きっと倒した敵のことを思い
自ら其の業を背負い生きた時間は
今の僕たちにはわかり得ない人生でしょう

五輪書は生きる上で大切な道理と天道に生かされている
事実を今も我々に伝えています

仏や神に頼るのではなく
この宇宙と地球の呼吸と
おのれの、日々の呼吸や風を感じ向き合う

人の生きる真理
アロハ的で、修験道的、ネイティブ的な彼なりの言葉です

真摯に目と心を向けた修行者武蔵が
生き死の途上の体験で閃き、降りてきた
これこそ日本人の教科書です

僕は武蔵さんには永遠に届きませんが
自然界や武術の生き死を独りで経験し体得し生きる術を
感じ続けようとした気持ちの幾ばくかは
同じ思いです

本当は倒したくない相手を倒さねばいけない刹那
もあったでしょう

武蔵さんがいた
おそらく数百年前と変わらない洞窟の
あの場の雰囲気の臨場感は変わらずにあると思います
聖なる場所の一つかもしれません

金峯山寺は車がないといけません
山頂のお堂の山を歩き
帰りに、霊巌洞に寄れますのでぜひ

参考 五輪書 宮本武蔵著 渡辺一郎校注 他

行くしかない

所詮宇宙には及ばない人間様
科学で証明する必要はなければ
手には入らないことこそ尊い

生まれたのは海の近く
茅ヶ崎の厳島神社の近くで
当時はジャングルジムがあり遊びにった

広いと思った砂の神社も
大人になり行くと予想より狭く感じたが
時間ともにその時の衝撃的な感覚も忘れていく

神社には猿田彦さん
半蔵坊さん(天狗か?)

明治時代に白龍、青龍出現したと彫られた石碑もある
時間まで書いてある

出たんでしょうね
 
数年前、僕が何も話していないのに
故郷の神社と諏訪神社を大切になさってくださいと
ある方に言われました

厳島はイチキシマヒメさん=龍神を使うまとめ役
諏訪さん=出雲大国主(黄泉の国の霊能者)の息子で龍神様

と伝わります

それはさておき

人は生まれながらにして持っているもの
それはどのあたりで決まるやら
決まっているやら

ま〜
日々行動あるのみ

思いの丈を自らに伝えましょう

夜明けの波の裏 
日本はヤオロズの神の島

昔、オーストラリアを旅していた

建築家か写真家になりたいと思った
だけどそんな、知り合いも、なりかたもわからないから
考えてもしかたいな
でもこんな時間も必要だな
と笑いながら

2週間ほとんど毎日、朝から夕暮れまで
本を持って海岸にいた

よく飽きな買ったな
と今改めて笑った

当時はゴールドコースト
に住んでいたから
いわゆる国内旅行

たしか本はライアルワトソンの道の贈り物

パースはハエがすごい
口の周り、目の周り水分を感じて
まとわりつく

海岸もグレートホワイトシャーク(ホオジロザメ)がいると
後ろから噛みつかれたがステンレスの防護をつけたから
平気だったとか書いてあったアバロン漁師(アワビ)やサーファーに聞いた

風がビュンビュン吹く濁った海で
独りでサーフィンしたが足元ばかり
ガブリとこないか、三角のあのジョーズのひれが見えないか
気が気でなかった

それでもウィンドサーファーたちがそれぞれに
沖へ向かい風の中を走っている

ここでも勇気と強い気持ちの海の男たちを尊敬する

ついた日の夕方
海を見にスカボロービーチという海岸へいった

海面の遠くに西から東へゆっくり
動く光を見た
消えては現れる夕陽に反射する光は
イルカ?かなと見ていた
きっとそうだ

なんてピンクのオウムガ
ガーガー集まり始めた海岸を後に宿へ

宿はキースという暖かな移民の経営するイタリアンと併設された
安宿

キッチンやトイレなど共同で
寝る部屋はうなぎの寝床の様な
ベッドとたんす1つの狭いへやで
窓は反対側に覗き窓だけ

笑うな〜
狭いな〜天井がなんでこんな高いんだ?
謎の設計

こんな部屋には当然いられない
まさに寝に帰るだけ

数日後、海岸にいると
ゆっくり3つのヒレがうねる様に
左から右へ

あっ!イルカだ
そう思い
立ち上がり波打ち際へ向かうと

そのうちの一頭が
急に方向を変え
僕の方にきた

打ちあがるんじゃないか
と思うほど浅瀬に来て
お腹を見せて反転し

次の瞬間顔を水面から出して
目があった

不思議な体験の1つで
みょうに感激し体から暖かな感覚が
湧いてきた

(泣かなかったけど)

完全に意識が重なり
向こうは初日の僕のまた会いたいな
という思いをテレパシーの様に
感じていた様な
いわば再会!という感じだった

その後そのイルカには30年近くあっていないけど
言ったらまた会えるかもしれませんね

旅をすること
すべてが解決し
無限な時間が予想を超えた
予想がばかばかしく思え
忘れる様にもなる未知の扉が
待っている

持っていた本がまさに未知の贈り物

影づれ

今日も古武道

古武道と呼ぶのは
何何流とあえて書くと
それにまとわりつく、人間界の妙なルールやきな臭さが
邪魔をする

流派を研究し練磨した
武人に失礼になる

武道の業界では
弟子が武具を団体や先生の紹介で買うと
武具屋から2割先生にバックされる

うちは最初から2割引きでやってくれと師匠が言う

世間も騒がせた剣道会の、派閥やいじめや八段を買うには
それなりの資金の準備やコネをつかい回すなど
腐らなければいけない

馬鹿馬鹿しい

学校と同じくここでも競い合う
階級制が人を濁している

黙ってひとり
海へ行け

嘘なんかつけなくなる

影がダブらない人にならないと

身の回りを見てみてください
影がズレてる人がいます

太陽は全て見ています

とうとうと

身をもって
この体を海に浸し
足をつけ
温度や流れを感じること

やがて1つの真理を知る

神や仏はひとまづさて置き

宇宙の儚さを知ること
神羅万象の無限な風を知ること

するとやがて
正しい道に自然に則していく

己がどんなの小さな石ころか胸でしる

未来の子供たちが綺麗な
海や川で遊べる様に願う

木製の日本

日本の神社の前の海

人の作った写真機でしか見れない1瞬の姿
波動の動きを高速で止めたわけだ
 
古来の人々は今の人間より
感受性、信頼性、強い真っ直ぐな道理、自然界の美と怖さの理解

数えたらキリがないというよりは
今の我々には到底知り得ない感覚と生きていたであろう

日本の波を旅をする理由は
神様が立ち寄る銘スポットが点在しているに
他ならない

妙な雰囲気がある
囲まれた景色が
普段住む水槽の中と違い
昔からのままだからいいと感じているのかもしれないが

神社は別荘で交信場であろうが
どうしても人の色が積み重なっている

人々は色々なものを置いていく

現生利益をする場所に変わった神社、各神社の特異な性能や効能
もあるからで、これは神社を維持するための方便で手段

国土と呼んでいた自然に包まれ
その風景としてそこにある物を超えた

ある有機的な感覚と美意識があり
神がそこに降り立ち、仏は輸入されながらも

この宇宙の地球じまの日本島には必要だったから
神様も、多様な仏たちや僧侶を受け入れ、育ててきたのだと思う

寛容

例えば本地垂迹と言って
仏=神 

牛頭天王は素戔嗚とか
少々荒っぽい解釈を作ったわけだが

それも何か
時はやがてくる乱世の世を乗り越える人という修行の者に
与えられたきっかけかもしれない
末法という思想を生むわけだ

日本は武家から庶民へと美術、芸術と呼ばれていない頃の美術=美意識=道 が生まれ
刀、器や茶道、浮世絵や様々が花を咲かせた

その道に精進し
時間と根気、揺るがぬ信念へ胸と動き
魂が宿るという、アミニズムの根底の力を持つ彼らがいて

世界に類を見ない様々な頂きへ向かう、鮮やかな道が幾重にも交錯し月へ向かった

海を通じ
海や山へ自然に祈る行為を
たやした時に、地球は終わる

早いばかりの現世
簡単にレンジで料理が蔓延の現世

自分の指先
目で見たこと
歩いた感覚
水の感覚
火の暖かさ
ローソクの揺らめき

遠い月を見て
風の音を聞く時間を忘れてはいけない

始まり

幼い頃
海の始まりは真鶴と
山口の無人島

特に山口は壇ノ浦を望む山の一軒家の植物園の園長で画家の爺様と
いつもなぜか神様の様に
全身真っ白なステテコ姿の仙人の様な ひいじい様は
ちょっと怖かった

あんまり話さなかったけど
小学生の僕にベッドの下からほら
と1万円!

僕は
なんでベッドの隙間なんだ?
なんで隠すんだろう〜とミステリアスなじい様

お婆は穴子の頭や骨を焼きつめまで作る料理人で
クロスチャンだったが、キリストやマリア姉さんを押し付けることも
アーメンと祈って魚介を食べることもなかった
台所の横で、捌かれ魚が料理になるいくえを見
味見をさせてもらう時の
婆さんが真剣な顔でどう?と聞く

一人前の料理人の気分
山の冷たい水でまな板を洗い次の魚へ

島は
渡船で渡る透明でちょっと冷たい海
水中眼鏡だけで1日中網で魚を追い
サザエやとこぶしやたこをつかまえた
これを毎日1週間
片道1時間通うのが楽しみだった

もちろん

僕は海で捕まえたあらゆる魚や
朝市場で買った、おこぜやウニやひらそを食べた

バスとディーゼル機関車の引く木の床の列車、文字通りゆられ
どっと疲れた帰りは居眠りをして窓枠の金属に、何度もごつんと頭を打ちながら

魚を活かして持って帰る為、ビニールのバケツに電池の酸素ポンプをつけ
るが、このビニールが水の重さで形をなす程度でよくこぼした

片手に釣竿と網、片手に海水と小魚の入ったブクブクを持ち
汽笛のなる汽車とバスで、腕が潮で白くなりながら

また船の汽笛が聞こえる、100段の階段の山の家へ
歩いて帰った

すごい荷物を海に当時から持っていた

当時は賑やかな城下町長府の書店街の釣具屋で
初めて1眼の金属の銀の縁で黒いゴムの水中眼鏡は
何よりも嬉しかった

海の始まり

皆さんも
それぞれに海の始まりがきっとあるんでしょうね

受けたもう

朝暗いうちに
冬の海へ行く

やる気がなければ1枚も撮れない

人間が見たこともない景色を
様々な奥行きと、無限な美で伝えている

僕は伝えているというのは人間側の言い分で

海や宇宙はそんなもんじゃない

もっとおおらかで、大胆で意味はない
伝えたいとも思っていない

と感じる

独りで海の中へ

命の駆け引き
命の使い方
を教わった

地に足がつく世界のことなんか
大したことはない

どんとこい!

羽黒山伏星のさんのいう

受けたもう!

すべての宇宙の色が無限に溶け合って
生きている
動いている

動くこと
そこに独り旅をすること
人とは群れない

初めて星野さんに会い
僕の写真を一眼みたときに

なんだか俺たちと同じことしてるね〜

とおっしゃっていた

山の修行者

説明をしないこと
うみや宇宙や自然美を
説明ができるわけがない

説明する必要がない

人間の及ばない叡智というか

叡智というとカッコつけた感じで

歴史がある
時間

通ううちに
通じ合える何かがある
生きていて、聞いて見ていると思う様になる

今日、平安時代の狛犬を見てきましたが

平安時代から続く
いやもっと古くからだが
例えば
物質でないから風化していない
陸上の風
海の波は
当時と見た目はかわらない

風も水も見た目はない

見た目は透明

木々が揺れ
波に現れ
頬にあたる感じ
体感する寒さ

で風や波を知る

数億年変わらないものは只者じゃない
記憶が深くなっている

神系の狛犬も祈りを聞いている
仏像に比べて、同じく厳しいが
白い透明な感じがする
祈り

個性と役割の違う仏像は重いというか
願いが染み込んでいる

あら
地震だ!

波は生まれて消えていく

海外の展示は全くできないですので

今年の個展は9月〜10月 代々木上原ファイヤーキングカフェ
11月 汐留 の パークホテル東京

詳細は追ってまたご報告いたします。

チョコチョコ海へ行ってますが
天気や波の影響の最前線な為
気長に撮ってます

出雲の波も考えていましたが
別な場所を探しに行こうかと

夏までにはプリントをしないと
間に合わないので実は今から少しずつ
選んでいきます!

波は生まれて
消えていく様に見え

人間様目線の生まれるものではなく
たまたま水が反応しただけの
もっと広大な時の波形の1瞬

あるけれども
無い
無いけれども
ある

波という固有の1つの物ではなく者

過去の記憶を持ち常に振動し変化する
地球で唯一古来からかわらない海風

なんていうかな・・・・・

朝早起きは嫌だ
真っ暗な海へ行くのは気が引ける

寒いなんてもんでない
海で流され沖へ、右へ左へ

泳ぎっぱなしでも寒い

ウェットきていても震え

すぐに温泉にドボン

でも日本ならではの1枚が待ってるから
行きます

サメもいないですし


アメリカ車
A-Carsさんの取材記事です

エーカーズ中野さん、ライター本間薫さん、佐藤カメラマン
城南ジープ安江さん
ありがとうございました。

87年まで作られたシボレー エルカミーノ

トラックのキャデラックと呼ばれ
乗用車の足回りで車高が低い独特なデザイン

当時は顔やサイズは同じで
ライトバンとセダンのマリブの
3種類を出したがマリブは84年に生産中止

この辺がアメリカの遊び心

濡れた荷物も放り込み
デザインがとにかく美しい

旅の馬

フリーダム

人は器

2000mの山寺で年に数回会っていた
宮大工の望月さん

皆徒歩で3時間から5時間
この龍神の住む山に来る

独特な野生動物の様な雰囲気と
優しさが溢れた人

祈りの人々が夕方つくと
夜の7時ごろまで
この囲炉で旅の人が杖に
記念に押したい

焼印を鉄のコテで押してくれる

炭火で大きなヤカンが沸く
囲炉に独り静に座っている

そのままの美しさ

一年に一度きり
9月の中頃

闇の中に祭りの光と笛の音が聞こえると
どこからともなく集まるオヤジたち

神主
部品製造職人
謎のオヤジ
魚屋

人生の波を呼吸した時間は顔に出る

そして今はチャコットでバレエの美女達をパチリ

極めて 危険

カメラは所詮道具

どんなカメラでもいい

持った感触や、シャッターと指の距離
と重さは大事だ
カメラが軽いと押すとブレる

今はフィルムでないので解像度は大きい方がいい

ピントだけ片目でみるが
あとは見ない

手裏剣を投げる様に
潔く押す

ファインダーを見ていると
1枚の写真にカメラマンの意図が入り込む

写真教室なんかいくべきでない
みんな大先生と同じ1枚になる

自由でワクワクする1枚は無限にある

地球人のみんなで押しても
同じ1枚がない様に

絵にも書けない
未知の可能性が待っている

自分為に撮る
黙って押し続け

クソみたいな1枚でもいい

たくさん撮るとある日わかることがある

学校で仙人を目指す様に教えたら
地球は幸せになり
自然は守られるだろう

いい学校
いい会社なんか意味がない

自分と太陽の影がずれずに生きてるか
見るだけ

写真機はその影を知らせてくれる1つの証明だ

手段なんか1つじゃない
臨機応変
体を動かし自分の道を行く

危険極まりない世界に美の根源と真髄がある気がする

天の気分

天の先には宇宙なる闇の世界
 
それは海の中と似ている

太陽の光が縦横無尽

水中か空中か宇宙空か

全ての物質にも隙間がある

常に振動し動いている

言葉や文字では表せない時間の隙間を観ることが美意識

ここにきたら全てがわかる

頭は捨てろ

稲取

海は風雨で濁り
波もない

竜宮城の入り口と出口

何かを感じた
古来の人々

電子レンジやファストフォード食べ
消えていく、備わっていたはずの
野生の感覚

人は波

人も波も同じ
物体ではなく

振動し感受し
波動で動いている

動いているとは変な表現ですが

少し先を読む

少し先にカメラを向ける

僕は写真はこんな風に思います

三脚立てた
写真は凍ってます

生きてないというか
その人がラップされてしまっている

流れを1枚に止めるだけ
見るのはファインダーではない

そんな風に思いました

決めない

海の話へ

世界中にはまだまだ美しい波がある
それは永久に知らないまま
それでいい

なんでも征服したり
欲しがってはいけない

波の表面は人間界

波の裏はもう1つの地球の世界

息ができない
飛魚が一瞬水面を飛ぶ
ボラがジャンプする程度の時間
波の裏にいられる

度胸が自分に試される
海は独り

何気なく修行ですと言っていた2003年ごろ

歳を重ね
上手に力まず波の裏側で笑えるようになったが
体力は激減したのだろう

プールで毎日3〜4キロ泳いだ高校時代
お前に夏休み5コース貸すから
やる気があれば来い

と言ったS先生は泳ぎの恩人

特殊な泳ぎ方基本を
手だけ
足だけで延々泳いだ

海はいつも怖い

という感情はどこから来るのか?
すでにあるのか?

科学ではセルトニンの意地悪というが
それでだけではない

体内の
いや胸のあたりに(多分心臓)に
いつだって集まる
あの感覚を思い出すと

やはり自分の中にある

怖いという思いは自分が捏造する弱さ

怖いと思うと
体が素直に固まったり
動きが悪くなるの2時的なパニック

海で腰ぬけは
 
腰の軸がぶれ
指先や体が流れて動けなくなる

偉そうなこと書いても
今だに怖い

怖いおもいを人の何十倍もしても
まだ足りない

その分人間界で何が起ころうと
怖くない

あの絶海の海に独りに
比べたらなんでもない

死ぬわけじゃないし

経験
体験を自分でする

頭で考え
決めつけない
1つの正解も答えなんかどこにもない

ガイドが最初は必要だが

あとは自分の動きや心の動揺を正直に観る

以上

自分を欺瞞しないように生きること

やるしかない状況へ
自分で自分を押すこと

大自然で体験を心中、体中に染めていくだけ

胸から入る

写真はその証明に過ぎない

世界一早い波の裏側で
死と生の線を大笑いした

飯食って充実してぐっすり寝る

興聖寺 臨済宗

京都の美術印刷にかけては日本一とも伝わる
サンエムカラーさんのご縁で
始まった織部さん、曾我蕭白さんのご縁

ありがとうございました。

今日の冬の旅
JRそうだ京都行こう
で12000人もの方がこの青襖の前へ
望月住職は在家から
心に昔から引っかかっていた思いを
自らに伝え 禅の道へ飛び込んだ

住職はやはり山梨の早川町の近くの血筋
望月性は身延山や七面山の近くに多い

銀座和光前で1000日以上修行されていた
今は亡き高野山の阿闍梨 望月さんも同じ

織部さんが自分の安寧の地に
天海と様々、この水の暴れた水脈と
菅原道真さんを祀る水火天神の地に
お寺を作ったのは1603年

堀川通もなく
地続きのこの地に何かを感じたに違いない

織部さんは
緑の釉薬で自然美の絵を、変わった器や茶器に残した
本人は焼き物や絵は描かず?
いわゆる現代でいうプロデューサー

魯山人は成型やろくろは職人で
絵は自分で絵描いたから
ある時自分の作品ではないとも書いていた
織部を想像し織部焼も作り
自ら赤坂に星岡茶寮なる料亭を後援中村竹四郎、はじめ協力者と作り(最後は裁判にもなり関係は破綻)
器から着物、料理まで企画運営した

京都丹波 山中和知川の釣りあゆを生きたまま
67時間かけトラックの生簀で赤坂まで運んだ話はすごい

数カ所で清水を補給し
人夫が柄杓で新鮮な冷たい水を変えながら
京都で郵便車両にのせ東京まで11時間

途中、名古屋と清水で水を入れ替える

加賀の料亭 山の尾(現在は全く関係ない経営者)太田多吉の
料理と器を作らせていたこだわりを吸収し
再現し、数満点とも言われる
自らが器を作った例は魯山人しかいない

懐石の始まりや、海や山のものを山海かこう盛りとして
草花や花を艶やかに盛り付け大皿で出したのは魯山人というが

織部も茶室で刺身や様々
もてなしたのだから元祖は織部ではないか?

美意識とは果てしない
終わりも始まりもない
悠久の自然美の再現に過ぎない

興聖寺は一般公開はしていません
先日の特別後悔は40年ぶりの公開でした。

織部三畳の茶室、矢織部デザイン(茶室までの途上身を清める)降り蹲など

江戸時代の奇才な画家 曾我蕭白さんも見ていたのでしょう

また静な新緑の紅葉の苔寺で
青い波が寄せては返しています

みなさまありがとうございました。

曽我蕭白1730~1781 1/30享年51才 幼くして亡くなった息子1777年と
死んだら一緒にしてくれと 行っていた通り
息子さんと一つのお墓に
 
京都に生まれ孤独の旅をした蕭白さん
池大雅と親しかったそうです

画が欲しいなら俺に
絵図が欲しいなら応挙がよいだろう

法名 一輝蕭居士

織部さんへ
花瓶へざっくり迷いなく

自分より有名になることに嫉妬し
徳川に嫌疑をかけられ切腹
織部の仲間も皆斬殺

師匠利休も秀吉に強制され切腹
首は一条戻り橋へさらし首

恐ろしい日本人

72才の織部さんは

かくなる上は
入組み難き候
さしたる申し開きもなし

一切の言い訳も、何もなし

と・・・

古田織部正 重然  長男重嗣と差し違え自刃 72才 伏見の屋敷
古田せん奥様 仏門に入り弔う1629年 5/29 72才

息子
古田山城守 重嗣 織部と差し違え自刃 6/11 1615 37才
古田佐助  重尚 6/13 自刃 江戸
古田小三郎 重広 6/13 自刃 江戸 兄弟で差し違え自刃
古田九郎八 重行 自分の子供を興聖寺のお坊さんに託し お墓の前で屠腹 6/24 27才
古田左近  重久 大阪城の戦いで戦死 5/7 25才 取った首にお父さんの名前を示したという
 
お墓にはおじさんと一緒だから墓石は織部を意外に6基

どう生きるか
自分に嘘なく
潔く生きた彼ら

美意識のもののふ

蕭白さん没後241年
織部さん没後407年

蕭白さんも参り語りかけたであろう
織部さんの墓前で

僕も二人に語りかけた

新緑の風に揺れ鳴く
もみじと彼岸桜の中で

出雲大神宮

京都亀岡の山の麓
出雲大神宮は出雲大社よりも
1万年とも2万年とも言われ
古くから山が神として信仰されていたと
岩田宮司さん

出雲族の祈りてたちにより
崇め、尊ばれた神は今もしっかりと
その信心で受け継がれているのは
物凄いことです

神社には大国主(神様の幽世かくりょを鎮る神)
と100人はいる奥さんの一人ミホツヒメミコト
少な彦さんを祀る

息子事代主さんも祀られています

岩田宮司のご挨拶では
311の震災とウクライナで亡くなった方々の御霊へ
黙祷から始まりました

すると急に風が吹き始めました

鎮花祭も1000年以上続き
宮司さん達も頭に花をつけて
祈られてました

旧暦3月は花が散る時期であり

それとともに疫神も分散し広がると言い伝えられ
その疫神や疫病を鎮め国の安泰を祈る荘厳な儀式です

1000年の歴史に立ち会えた
素晴らしい体験でした

崇敬会の席までご案内くださり
神社関係各位の皆様に
この場を借り御礼申し上げます。

一度山を下り
100年続く茶店青山タバコさんへ

名物は(ぜんざい、冷やし飴、甘酒)
僕は歴史を無視し ソフトクリーム!バニラ!
といった暴挙にも

おばちゃんは横に座り、延々と不思議な稲荷山のお客さんの体験談
を物語のように話す

来るたびに聞く
不思議な体験談や見た!話し

何かあるんだなこのお山は・・・
古来からそもそもあった力や魔力なのか
それを感じた秦氏

祈りをすることで、そうした秘密めいた力が集まったのか?

瀧場や力のある祈り場が伏見稲荷の向かって右の山奥にあるという

そこは大岩に神様がいらして
行場の瀧もあると

そして何より若冲さんのお墓へ行く途中の
おじそうさん前の、京都府の共同墓地(無料)に
伏見稲荷の元祖 秦氏さんのお墓がありますよ

これはいかねばと
神馬にきゅうりをお供えし
根上りの松の反対の山へぐぐん

竹の子畑を抜けさらに山へ行くと
あったあった

全ての瀧をお参りをし

最後の末広の滝へ

1日に何度も瀧場の落ち花や葉を掃除する
お守りしているお姉さんに
若い頃のモノクロの写真を見せていただいた

綺麗な着物姿ですね

若い時はね
夜酒飲みに行ったわよ
お茶もしていたから

山を着物で降り、タクシーを呼んでね
街へ行ったのよと・・・・

1枚の写真はすごいな
と改めてその奥深さの静かな時間が流れた

瀧が打ち付け、若い鶯が鳴く山
この景色は昔のまま全てを聞いて見ているんだな
古来から変わらぬ音と景色に
人間の命は儚いですね

岩瀧神様は
磐座の山が御神体のすごい気の場所でした

伏見稲荷の喧騒とは正反対の
昔の賑やかさが偲ばれる今は寂しくもある
美しい山道でした

幾億の人がこの山奥で
この場で何かを求め
また浄め祓い願いをかけ
参られた聖域です

お供えは末広さんで買い求め
お供えできます

今度は秦氏のお墓

青山の茶店のおばちゃんの説明がいまいちわからず
全然関係ないお墓を拝んでいた!
ことがわかり

また探しに行くと今度は見つけました。

鳥居をくぐらず右に行くと
ぬりこべ地蔵があり
その右前の奥にあります。

ぬりこべさんのその先に
石峯寺(江戸時代の画家伊藤若冲さんのお墓があります)
お墓へ行くだけなら無料ですが

裏の若冲さんの浄土の石仏群を見るには
お金がいるようになりました

お墓まいりに
いかれる場合は社務所に必ずお声かけください

2000年後自分の絵の価値がわかるものが
現れるといった黄檗宗の僧でもあり
独身で妹さんとこの地に住んだ若冲さん

そんな若冲さんの絵も
高いものは数億円
精密な鶏で3000万
墨絵だと200~500

若冲と印は
特徴は左が切れている印

しかし弟子の若エン達が書いて押したものもあり
いまいちプロの骨董商でも鶏の墨絵は微妙ですと聞いた

しかし
業界では一応若冲としている事実

今となってはわかりません
が過去に何幅か見ましたが
線というか若干筆の流れが違う感じがします

絵にあざとさがある感じというか
ある法則で売れる絵を描いた感じ

購入する場合は気をつけてください

もちろん蕪村や白隠、蕭白のように、全て贋作もあります

神保町のフィフティー画廊さんか、青山の紅谷さんなら
間違いないですので
僕の名前を出してお電話してみてください。

稲荷山

狐は龍神様とも伝わります

狐の穴がたくさん昔はあり
その場所に塚を作ったそうです
安倍晴明のお母さんは狐
落語の王子の狐も同じく
古来、今の僕たちには見えにくいですが
そうしたある霊力をひっぱんに見れた時代であったのでしょう

天皇の儀式では
羽衣の衣や隠蓑
いろいろな魔法の鏡が存在し
呪詛から守り、儀式に使用していた記録も残ります

今の科学者や僕たちの尺度では
お呼びもしない、不思議な世界が地球にはまだあった時代の
美しい話です

元は渡来人 秦氏が祈った霊山も
時代を超え、いつの間にやら美しいオレンジの鳥居を販売

これが山を不自然に華やかにし
人を集め
外国人にはインスタで爆発!

数年ごとに値上がりする
鳥居は今は21万から、目立つ入り口のでかいのは数千万です

政治的な部分がないとお金だけでは買えない場所は
日本中にありますね
(今も順番待ちで朽ち果てたら終わりで、空いたら次の人へ販売)

今後ロシアやウッドショックも影響も出て高くなるのか?

腐らない素材だといけない都合もあるので・・・木でなくてはいけません

昨今の神社は現生利益=商売繁盛、縁結びやらのスポットに
なり、効きは同じなのに真ん中に1組づつ並び、願を懸ける
行いは、有名な神社ほど多くなってきた

出雲でもどこの宮司さんも、周りからお参りされて
並ぶばなくていんですけど
と言いつつも、それを皆さんに言わない

代わりに僕に言ってください〜と

言われ

並ばなくてもいいんですよ

効き目は一緒ですと戸隠神社の奥社で
完全な変な空気に飛び込むには
貝を吹いて入り込み

いいんですか?という人

99%は静かな沈黙で並び続ける

言うと大抵
変な空気になり

端から拝むと
なんでこのおじさん
並ばないんだの視線

でもめげずに
正しいことですので
釈然と

江戸時代に商業が生まれ
全国の神社で広告的に参拝者寄せのため、維持するために広がった
願掛け信仰

白装束の講や(お祈りのチーム、団体)行者さんも
めっきり減りました

特に稲荷系の神社は
いまだ全国から商売繁盛の執念とも思える熱は凄いです

ちなみに豊川稲荷さんは、入口の石の鳥居はありますが
仏の曹洞宗なため二礼二拝一礼ではなく
手を合わせ、般若心経

人間の心臓を食べる荼枳尼天が神仏習合の
混沌の中人間の都合で稲荷イコールになった

しかし古来の祈りとは違う、神様へのご挨拶で
数千本並ぶ鳥居は集客力は強烈です

お賽銭や奉納金もダントツの伏見稲荷

宮司さんも大丈夫でしょうか?
人間界色々おありでしょうが・・・・

以前に目にした外人は鳥居にぶら下がり
インスタ用にパチリ
一部の中国人は御神酒やお供えを持ち帰る

その昔は
岩や瀧や全ての万物への祈り=宇宙や海につながるわけですが
一般人も今より霊性の高い人が多かったのでしょう
それは世の中の常識や人への思いやりと比例しています

元気な人がシルバーシートに座るなど
キリがありません

明治の神仏分離や修験道禁止まで
100人に一人は行者だった日本人
全国の神社や寺へ祈りの回路が自然に生まれていたわけです

この山に命を注いだ
砂澤たまえさんにご挨拶に
おにぎりと御神酒を

一升瓶は山の御膳谷の社務所へ
ご奉納すると3ヶ月後に取りにいけばいただけます

稲荷山にはいくつも瀧と地図にありますが
皆さんの考える自然な瀧ではなく
配管やとよで落下させる人工的なものです

あるお坊さんも若い時は瀧行もしたけど
シャワーも同じです
と・・・・

そうかも


言ったらなんですが
やった人しか理解できないことがあります

大自然の厳しい修行を超えると
ある領域にしっかりした自分がいるのでしょう

大事なのは何か?
瀧に打たれるとは何か?

古来から行場として
白衣やふんどしで禊ぎ、水に打たれる方もいます
そうした方々の思いで瀧場が大切に神聖に保たれています

人によりお不動様の瀧が何かを感じるとか
どこどこの滝がいいとか
あるようです

僕は今回はしなくていいなーと思い
瀧はしませんでしたが
祝詞を捧げました

以前は自分の疲れや止まっている何かを
流し祓う感じでした
ので。瀧場にはいいものも、悪いものもありますし
それなりの気持ちと作法で入ってください

瀧場も立ち入り禁止と書いても

近くに必ずある神様へ挨拶もせず
勝手に開けて写真を撮るハイカーの
じい様、婆様やトレイルランニングの方もいて
本当にだめよ今と
瀧場のおばちゃん

自由に浴びれますが
軽い気持ちでやらないように
お塩を撒いて浄め
ふんどしか白衣など白装束でお願いします

霊場のルール、いや人間界のモラルですが
薄れてしまっているのが今の日本の現状です

波の中で波を潜り抜けると同じ感覚です

甲賀稲荷

昔は明治記念館の入り口左付近にあった(権田原)
甲賀稲荷も政府の地上げに遭い
明治初期に千駄ヶ谷の鳩森神社内に

4/15は大祭の日

10年に一度位は雨で拝殿で儀式です
と宮司さん

数年前に崇敬会に入らせていただき
地元の町会長の方々にポツンと
関係ない場所から一人
毎年参加させていただいてます

玉串を捧げ
祝詞を聞いた雨の中

甲賀から江戸城警護の出稼ぎと任務を帯びた
甲賀の地侍と忍たち
古里を思い、毎日お稲荷さんへ拝んでいたんんでしょう

雨の中なんだか感慨深く
涙が湧いてきました

おそらくは
甲賀の人々を誘い、徳川とつなげたのは
京都知恩院の奥に眠る、甲賀の毛牧城の山岡景友三(道阿弥)さん

そのご兄弟、山岡景光さん
甲賀21家の多喜一族(瀧飛騨守)さんの
お墓も甲賀の称名寺にありました

過去から来る時

全てに色はない

しかし全てに色がある

刻々と移ろうから
ないものもあるものも存在できる
と般若心経

波だけでは透明な水

宇宙から来た太陽光が物に反射して
その反射情報で
様々な色が見えるのだが

水は透明だ

水にはきっと
水分子のくっつきあう
隙間がある

また分子がH2oが離れる瞬間にも
隙間ができる

水分子同士が海を満たしている
理由はくっついても離れるから
海に落ちても支えられ、クッションになるのは密度がある

空から落ちたら落ちるが
鳥の羽は空気を掴むから動ける

魚は水を利用しているから動ける

なぜ水中で僕たちは移動できるのか?

水の不思議は、水素と酸素の分子が
まるでで生きているように

ハンガーというか
やじろべいのような水分子は

電気のプラスとマイナスがくっつく
4つで1つ
正四面体(ピラミッド)の形に

しかもそれはさらにくっつき
温度が冷えると隙間が広がる

冬の海はそうした隙間が
南の島の25度くらいの海水温と違い
隙間があ流から光が入り込んだり屈折したりする
するのだろうか?

まだ解明されていない水

水をこぼしティッシュで拭くと
水が移動するからで
ティッシュが水を吸収するのではなく
水が平面の硬い素材では動けないが
移動しやすいティッシュの隙間に移動するから

数えきれない水の分子が四方八方の知らない
分子と無作為にくっつくから

水という密度とある均等が保たれている

この辺は数学者の話だが正四面体が20個くっついたり
するとある形になる

イギリスに多い
ミステリーサークルも
点と点を結ぶ結局は
トーラスの形になる

宇宙やこの世の全ては
中心に向かい回転している
トーラス、リンゴや梨もトーラスの形

波が無ければ見えない色
だが、波という姿を生まれては消しているのは
水、その隙間にさらに塩分や様々な物質が溶けているから
川の水よりも色々な隙間ができたり
拡散したり、反射したり起こるのだろうか?

水の持つ不可思議な透過やプリズムや反射

太陽の高熱と光が届いているが

ちょうどいい具合になる不思議
遠すぎても、逆に近すぎても眩しすぎる
誰かが配置したような月や太陽の関係

月が地球の1部というが実は嘘で
月はほぼチタンでできていて
カナダだったかTNT火薬を爆発させるとかまるで
中が空洞の鐘のように音がなり響いたらしい

それはともあれ
太陽に生かされている地球を知る
魚たちの1日も太陽の光で始まる
人間は魚たちより後から来た外来種だ

そのさらに昔からある海は全てを知っている

感応ことにしきりに覚えらる

と芭蕉が黒羽城の浄法寺の知人を急に訪れると
主人は大喜びで昼夜語り合い、数日間滞在した

家に招いたり、色々と連れられ
ある神社で
那須与一が扇の的を射た時、「わけてもわが生国の正八幡よ」
と祈誓をこらしたのも、この神社であると聞くと
ありがたさもひときわ
ひしひしと身にしみて感ぜられる

と日記に書いたという

海でたくさんの人に暖かくしていただき
独り海へ行くと

海の威徳が人の心に感じこたえる


独りこの身で知った

連接する時間が
さらにやってくる予期しない次の時間で
いっそう色濃いものにしてくれる

旅が教えてくれる
過去と未来

やがて数百年後
芭蕉がきたこの地で

未来の人我々が芭蕉を偲ぶ

海は生きていて
全てを見て感じている

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