武蔵さんの命日が近い

雨が続き
街のあれやこれや、が忙しく
海にも行けないので

宮本武蔵さんの

空の巻より

1部
・・・・・武士は兵法の道をたしかに覚え
其外武芸をよくつとめ
武士のおこなふ道
少しもくらからず

心のまよふ所なく
朝々時々 (ちょうちょうじじ)おこたらず

心意二つの心をみがき 心意=(意のこころかろく、心のこころおもく)
観見二つの眼をとぎ

すこしもくもりなく
まよひの雲の晴れたる所こそ
実の空と知るべし也

実の道を知らざる間は、仏法によらず
世法によらず

おのれ、おのれはたしかなる道とおもひ

よき事とおもへど
心の直道よりして
世の大かねにあわせて見る時は
其身、其身の心のひいき
其目、其目のひづみによって

実の道にはそむく物也

其心をしつて
直ぐなる所を本とし
実の心を道として
兵法を広くおこなひ

ただしく明らかに
大きなる所をおもひとつて

空の道とし
道を食うと見る所也

空は善有 悪無し
智は有也 有=う
利は有也
道は有也
心は空也

正保2年5月12日
寺尾孫丞殿

新免武蔵

武蔵は熊本より西
金峰山(吉野金峯山より修験者を呼び、侍や忍?たちを訓練した山で山頂には役の行者もあり、数年前にお参りに行きました)
其麓にある曹洞宗霊巌寺の奥の院の洞窟に篭り
坐禅修行した

武蔵は細川藩の剣術の先生もし
金銭面など多くのサパーとを受け

現代でも車で来てもこんな山奥の奥をよくぞ見つけたな
と思う洞窟
藩老沢村大学の手引きでこの洞窟に来たのであろうと言われている

武蔵は諸国を旅し
戦いを挑まれたが真剣は使わず小太刀や木刀で戦い
江戸の塚原卜伝や一刀流の道場には足跡がないとも言われるが

それは今の僕たちにはわかり得ない事

いずれにしても
観音様を祀る、今は木立で見えないが、当時は有明海を望む
今も独特な気の立ちこめる6mほどの開口と奥に数メートルの岩窟にこもり
生死の線を生きた武蔵さんは凄い人だと思います

こうして数百年後
日本や地球の隅々まで知れ渡る生き様と
自然観、宇宙観を観得し感応した訳です

島原の乱の戦いにも参加し
敵の投石により足に重傷をおった(余談ですが甲賀忍、伴さんはじめ数人もキリシタンの島原城へ潜入し、兵糧を捨て、旗を奪い、火を放った工作をした記録がある)

其翌年
五十七歳の秋に細川忠利の招請に応じ
熊本に来たが
この頃は病気がちであり

おそらく足を引きずり(骨折か?)命をここで整理し安寧の地として
ここで五輪書をまとめあげた様です

そんな忠利さんも54で急死しますが
後を継いだ肥後守光尚さんも
引き続き武蔵を懇切丁寧に保護したとあり
武蔵さんのお人柄も伺えます

癌を患い
幾度も霊巌洞に戻るも
心配した藩主たちの説得で、千葉城跡の居宅に戻り
特に3名の細川藩の若い侍の看護と優しさの元

5月19日逝去
行年62歳

きっと倒した敵のことを思い
自ら其の業を背負い生きた時間は
今の僕たちにはわかり得ない人生でしょう

五輪書は生きる上で大切な道理と天道に生かされている
事実を今も我々に伝えています

仏や神に頼るのではなく
この宇宙と地球の呼吸と
おのれの、日々の呼吸や風を感じ向き合う

人の生きる真理
アロハ的で、修験道的、ネイティブ的な彼なりの言葉です

真摯に目と心を向けた修行者武蔵が
生き死の途上の体験で閃き、降りてきた
これこそ日本人の教科書です

僕は武蔵さんには永遠に届きませんが
自然界や武術の生き死を独りで経験し体得し生きる術を
感じ続けようとした気持ちの幾ばくかは
同じ思いです

本当は倒したくない相手を倒さねばいけない刹那
もあったでしょう

武蔵さんがいた
おそらく数百年前と変わらない洞窟の
あの場の雰囲気の臨場感は変わらずにあると思います
聖なる場所の一つかもしれません

金峯山寺は車がないといけません
山頂のお堂の山を歩き
帰りに、霊巌洞に寄れますのでぜひ

参考 五輪書 宮本武蔵著 渡辺一郎校注 他

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