古田織部の息子さん

5/7は 古田織部の息子
5男重久さんのご命日
(25歳)

兄弟、父が徳川に嫌疑とおそらく嫉妬をかけられ
捕らえられたのを知り、お兄さんに遺書を書き
取った首にお父さんの名前の札をつけたという
そして大阪城の戦いの流れの中、討死

そんな織部一族が眠る
京都興聖寺(織部重然が60際に時に作った菩提寺で、臨済宗)

後醍醐天皇の兄弟争いの為に50数年間続いた
天皇家の内紛の流れの中

利権と欲得の保身を大切にし力で土地や金を強制徴収した
東大寺の荘園と同じく(伊賀から強制搾取し、忍の祖先に抵抗される)
武家集団鎌倉の北条幕府5山制度と同じ仕組みを作った京都の足利の
祭事や外交は主に臨済宗にさせたのは1300年代

琵琶湖の利権や様々な財力と武力(武装した僧)
の比叡山に対抗すべく

武家社会は臨済宗を特別扱いし
利用したという

元は織部も岐阜の武家で、信長につき、その後秀吉の御伽衆
当時はそんな力添えがあったのだろう

興聖寺の和尚を推薦した天海も豊臣時代は織部を応援し?西と東にいい顔?
やがて徳川の御伽衆=相談役になる

豊臣が鴨川で一族死刑にされ

江戸時代になると徳川が天台宗を国家宗教にし
家康にみそめられた 黒幕天海は
西の琵琶湖と比叡山にちなみ

1624年
江戸に呪術や占星術を用い
京都の都と同じく
鬼門としての東の延暦寺モデルを造る

不忍池=琵琶湖に見立て
竹生島=弁天島
延暦寺=寛永寺とし
藤堂高虎(伊賀延寿院を菩提寺とし目白の南谷寺と同じく基地とし織部の弟子で友)につくらせたと
天台宗の赤目延寿院の住職から聞いた

法華経以外は地獄に落ちろ!
日蓮宗以外は邪教で
浄土門徒の首を由比ヶ浜ではねろ!
といった日蓮と浄土宗の争い
と同じく

幕府が絡む
天台VS臨済の代理戦争?
として宗教は独自に戦争を繰り返し

宗教は権力に悪用されてきた事実

忍者を使った楠木正成を責め
後醍醐天皇を裏切った足利尊氏
が自分の弟に責められ
後醍醐天皇亡き後
南朝に泣きつき無条件降伏した

北朝として戦った死んだ兵士が浮かばれない
そして一年後また裏切る

お寺の話しに戻ると
このお寺は1603年に織部の財産を投じ
作られ、天海がその隣の水火天神(菅原道真さん)を祀る地の
庵に10年前から住んでいた「こおうえしじ」禅師を開祖とした
当時は臨済宗ではなく
顕密兼修の道場で
臨済になるのは1701年

いずれにしても
ここは
瞑想を含めた修行場として
脈々とした時間が今も漂う

その時の龍の天井絵と本堂が残ると言われている
本堂には鎌倉時代のダルマさんと「こおうえんしじ」さんの木像
弥勒菩薩さんが鎮座

織部設計 織部下り蹲など
国宝が維持されてます

現在も興聖寺は一般公開していませんが
京都観光局の夜の瞑想坐禅から
限定人数で予約できます
来年2、3月には一般公開予定

波の襖絵
織部さん達が亡くなった
約1615年から2021は引いて
406年後
波の襖絵が完成したのどういったことが
裏で働いたやら

いずれにしても
茶湯や庭を通じ
美意識と自由な遊びと大胆な筆捌きを
追究された織部さんとの不思議なご縁は
僕が死んだ後もの頃襖絵が語り続けていくことでしょう

人の命は儚いが
どういった光陰を引くかと

真珠湾から戻らなかった
空母飛龍搭乗員清村勇さん(享年19歳)
の遺書を読んで

彼らの分も死ぬきでやるぞ!
と思ったのは
2002年
この写真がうつされた時

年をかさねていくと
繋がることがある

足跡が交錯するのが人生

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