織部さんの海

岐阜に生まれた古田織部 重然(しげなり)
信長につかえ

信長は攻め滅ぼしては
名物がりと称し
器などあらゆる茶器を強奪した悪い男であり

伊賀に地侍や忍に2度負け
をこの国から伊賀を消そうとし、女子供の首をはね
神社、仏閣に火を放った極悪非道な行いの末

翌年に警護のすない京都で
あの世へ特急券でいく始末を
誰が配慮したのかは謎

そんな天正伊賀の乱1581年9月に

織部は利久の門に入ったと伝わる

その2年前、織部は妹の旦那さん
茶人で利久の兄弟弟子で
大徳寺の春屋宗園和尚に参禅するために住み着いた
藪内剣仲さんとの時間が茶の道の本格的なスタートに

純粋に茶の道に人生を溶け合いながら生きる剣仲さんは
元々堺の、怪しい輸入もする商売人利久の権力者に
媚びへつらう姿勢とは真逆な茶人

メディアなおで有名になるには、政治的な有力者の口添えが
今の世も大切なしきたりだが

藪内さんは精神的中心に正心と禅からぶれなかった男
ここにグッとくる

いわゆる六文銭を旗印にした真田と
幾度も主君に、うまく飛び移った東堂高虎の差か?

そんな織部さんは京都の水難、火災を抑える
龍神の地で菅原道真を祀利、水火天神の目の前に
菩提寺となる興聖寺を作ったのは60歳

人の縁でいえば、高虎の黒幕、徳川の黒幕
天海僧上の推薦で
天海の高足で、この地に大照庵という庵に住む
虚応円耳禅師 (こおうえしじ)を和尚にし他のだから

織部さんも天海さんと会い見え
いろいろな裏話を茶室でしていたんだろうな

今日、興聖寺には織部の木造、
徳川にうとまれ、親子差し違え、切腹させられた
織部さん一族のお墓がある

命日は1615年6月11日 に重然さん(72歳)と長男重嗣(37歳)
6月13日には 弟たち 次男重尚(前田利光家臣)35歳 三男重広 (池田輝政家臣)28歳

4男 重行 (豊臣秀頼家臣)27歳はお墓の前で お兄さんやお父さんをお憶い墓前で自刃した
5男 重久さんは(徳川秀頼家臣)25歳 は大阪城の戦いで討死
お父さんが嫌疑の罪で囚われたと知ると、取った首に父の名を「古田織部正」を記し
5/7に後を追うように亡くなる

権力に翻弄され
使い捨てられた、利久、織部とその仲間

疑われた島津の連歌師如玄や関係者29名は6月に市中引き回しの後、磔にされる

はりつけはキリストさんも同じく
恐ろしい日本人の勝者の行い
日本は恐るべし冤罪の霊魂の国でもあり
その御霊を数千年受け継ぎ
鎮魂する意識を維持できる人々が住むカオスな国である

織部の奥さん仙さんは剃髪し、一挙に失った家族を弔い続け、お墓も横で見守るそうです

その興聖寺には
風景なら応挙に頼めといった
元は朝鮮人の曽我蕭白さんが、幼い頃なくなった息子さんと眠り
その墓跡は、神主で儒家であり画家である、仙人富岡鉄斎さんの直筆の墓石に眠る

いわば興聖寺は歴史的に
斬新な美意識と道を貫いた方々が自然に眠る
芸術家という言葉もない時代から
彼らを無意識に引き寄せた、目に見えぬ海と宇宙があるのでしょう

安住の地をここに望んだ織部さん達へ

幾ばくかの時と憶い出を
この100畳の瞑想座禅の修行の方丈で
ゆっくりとお聞かせください。

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