自然観

松尾芭蕉は51歳で大阪御堂前で亡くなった。
1694年10/12の午後4時と伝わる

江戸の住まいから故郷伊賀に戻り
生まれた伊賀上野赤坂町に
無名庵が新築完成したのは8/15

父松尾与左衛門は、元服部郷 の伊賀平氏で
伊賀の南部にあった士豪集団で(忍者もいたはず)
地侍として生きていた
先祖は1581年の信長の伊賀殲滅作戦により
郷志と共に戦い命を落としたという

みなさんのよく知る、江戸末期の半蔵まさなりは
愛知生まれの末裔であり(墓は四谷西念寺)
半蔵門は徳川警護を任された半蔵を偲びつけられた

青山、千駄ヶ谷、赤坂、渋谷穏田あたりも
伊賀、甲賀の忍びの末裔が通勤に近いため住んでいたという

千駄ヶ谷の
鳩森神社には甲賀地侍が故郷を懐かしみ崇拝した
甲賀稲荷がある
富士講の富士塚もあります

下記はあくまでも本を読んだ
キキが流しですが

松尾さんは
旅の紀行文ではなく
3/27に深川を出
9/8頃に伊勢長島を旅のケジメとしている

弟子の曾良との旅は
西行や杜甫、宗祇ら旅に生き旅に死んだ
人からは狂人と呼ばれ諸国を旅した
彼らは理想であり

その命がけの旅の、しぜん、寺社、先人の旅人の漢詩や文に
溶け合わせながらの、漂白の乞食行脚を願い通り
遂行したわけです

自らの体験や羽黒山で修験者と寝起きを共にし
月山、湯殿へもお参りをし

心を野晒しにした
自己を投げ打つ旅だった

迷いや作品に関する修行や
旅への期待や不安
きっと何かしらの動機が突き動かしたのだが

電車も飛行機も車もない時代に
徒歩や馬の旅は時間軸がゆっくりと
自然のうつろいと共に
生の自然を感じれたことは
何よりも憧れる

きっと滝の音や雲の流れ
日本海で見た波や
セミの声や羽黒山の山伏の経文も
今の時代とはまた違った感覚を揺さぶったであろう

松尾さんが服部半蔵になった伝説は
時代的には50年ずれてますし
よくわかりませんが

服部の伊賀忍者や侍と松尾家が関係していたのは
間違えがなく

確かに
前もって各地の知り合いに手紙を書いていたり
いくら乞食旅とはいえ
それなりに資金も必要で

何よりも関所はどうして
するりと抜けれたのであろうか?

修験者は当時フリーだが
基本通行証が必需だったのに

ともあれ
彼らが心を添えて歩いて見てきた
感情や風景が300年後の僕たちに
魅力ある旅を

読み取った研究者により改訂を繰り返されながら

今も本になっているとは
松尾さんも驚きであろう

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