変身

カメラはいつ始めたのですか?
波はなぜ?泳いで?

水は人間界と違い抵抗がないので
じい様になっても撮ってたら
仙人になれるのでしょうか?

カメラは家にころがってました
例のば○ちょ○かめら
ピントも目測の距離で小学生には難しい

露出など知らず、Pにしておせと
父親にいわれ
(プログラムオート、カメラに仕組まれた自動露出設定)

スーパーカーのマークやタイヤ
近所にアルファロメオを見つけて夢中で24枚押し
カメラ屋さんにフィルムをだすも
全く感動もやる気もわかない、ピンボケのひどい仕上がり
あのときもう少しうまく写ってたら続けたかな

何よりも海で網を持ち
魚の生け捕りと水槽で魚を飼うのに夢中だった

14歳で
パラオのホームステーしたキッチンのお母さんを撮影
パラオの母あけみさんのちょいピンボケ写真は今も部屋に

今も当時とキッチンも変わらない家

先日、台風は大丈夫?
いつでもパラオにきなさいよ〜

行かないとと思いつつ
流さないようにしないと

このパラオのあけみさんの
旦那さん レイモンドアキオさんが亡くなったのを機に
パラオの墓前でなんだか「波へいけ」と声ではないけど
明確に芯で感じ

波へ向かうのだから

36年前お宅に泊まってなければ、こんな写真も
撮ってない訳です。

忘れていた写真も
24歳で地球の歩き方も知らず、インターネットもないいい時代

いきなり東オーストラリアへ行く際に
家にあったCanonAE1プログラムというアマチュアカメラにズームレンズで
撮り始めました

人はなんだか怖くて撮らず
どうしようもない看板や景色を押して
無駄遣いしただけでしたが
自分にも絵ではないけど、レンズの画角で絵が作れるんだな〜
と海外で現像してもらい4ヶ月楽しんだ。

なぜ?目の前のさっき迄の風景がフィルムに残る?
怖いな
不思議だな?

考えるのはやめようと
思いました。

ともかく見れたもんじゃありません。

そのうちに水中カメラの道具を100万円くらいしましたが
買いあつめ、海へダイビングへ

何度も死にかけ
道具の破損や、水圧による身体の血中酸素のもんだいや、鼓膜やら
これじゃ海で死に切れない上
魚や珊瑚にストロボをあてて
パパラッチし(眩しいだろうな〜魚の目は大丈夫かな〜)

海はあるのに1人で行かないで
誰かと一緒とか待っててとか
一日2回しかはいれません

などなど
人間の制約や都合と
宇宙服の様な海での行動や体勢の不自然さ

そんなときパラオのオヤジが死んだと感じ
電話をしたら丁度亡くなったと

パラオに行き

どうすんだオヤジ俺
ごめんね会いに来ないで
命は儚いね〜
会いたい人には会わないと
やりたいことは自分で決めてやらないと
人生クズだな
と思い

よし!
戦場かと思ったが
人の血や悲しみは他力で違う

誰にも文句を言われず、人知れず
個人的で孤独な世界で死にそうな場所は

海の波の中だな!と直感し

そんな小さな瞬間から始まったある日から
明確に海に悪い事をしたな〜と胸で感じ
やめました

その3ヶ月後には道具もなんとなく、つくってもらい
また東オーストラリアの海へ行きました

今みても、カメラケースはおそろしくでかく重く
恐ろしいです。
日本ではあの頃は誰も作った事が無いから
しかたないです

これは修行だ
撮れるかどうかはどうでもいい

まづは世界の波を片手にカメラを握り
片手、両足、水中メガネで泳いで
みるしかない!ウェイトいるかな?
謎だらけの水泳が始まりました

そんな旅を毎月毎週いき
最初は怪しんでいた成田空港の税関員とも仲良くなり
いってらっしゃい!と

南の島々へいき

フィジーで写ってしまったのが
新たな始まり

オーストラリア8月(偶然海岸で親戚に会う)〜オアフ11月(偶然溺れる)〜マウイ〜オアフ12月(偶然溺れかける)〜マウイ(偶然溺れかけ流された)
モルジブ〜フィジー(翌年の5月)で

偶然の撮るべき世界を見つけたのです

フィジーでは
波も恐ろしく早くでかく
サメやバラクーダなど強い方達もいて
それはそれは怖かった
島に帰れば山に妖精が出るとか
前に勝手に入った船乗りが足首サメに食われたぞ〜
とか

でも
あ〜ここにきてよかった
と波をくぐり抜け海原でらっこのように浮いて
東京のネオン街や小洒落たレストランじゃ
しらないままでいた自分が怖くなった

野生にもどり
忍者の呪文も唱え
変身と脱皮をくりかえしていた2002年頃

そんな小さな心の衝動と楽しさと好奇心
が頭じゃ思いもしない、偶然をつないでくれた
それこそが瞬間瞬間に生きた武者修行でした

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