楠正成

後醍醐天皇に忠義を尽くした
道教、儒教、哲学、神事、武術、忍術、精神で自らを錬磨した
楠正成とその配下の仲間達

大坂の奈良よりの山中に正成さんのお寺「観心寺」に参拝へ
神戸湊川で、後醍醐天皇が公家にそそのかされ
京都の町で足利を誘い込み
潰す計画を反対され
完全な敗北と死を確信しつつも

なおも天皇の護衛として新田軍を逃がし
僅か700人と数万の昔は仲間だった足利と戦い
16度切り込み
夕暮れ近くの民家でもはやこれ迄と
配下の者たち72名
弟と差し違え自刀したと言われている

互いに7度生まれ変わり,
ちょう敵を倒すといい

小屋に火をかけたという

その首は、元は仲間の足利尊氏により
京都三条河原から(さらしくび)
この地に運ばれたというが

実子、正行兄弟へもその侍としての生き方を
伝え、そんな息子たち、仲間を愛していた人柄で
この勇気と、死は死でなく魂の連続性を未来へ
再現している生き様が

大本営により
大東亜戦争に悪用された

忍者をつかいゲリラ戦にたけ
数万の敵を近くの千早城(金剛山中)で迎え撃ち

地元民や修験者たちの力を借り食べ物を運び
数万の幕府軍を返り討ちにした

この千早城の戦いが
鎌倉幕府滅亡の鍵となった

そんな楠さんの墓前へ
お酒と食べ物をお供えした

幼い頃、儒学、哲学などに励んだ
思い出の地で眠られ
さぞ安心でゆっくり休んでい

ご苦労様でした。

役の行者が701年に開き
はじめは雲心寺としたが
空海が高野山を開く為の拠点とし

高野山〜観心寺〜川原寺〜東大寺〜東寺を4日で歩いたという
今でこそ車で ひょいっとこれるが
昔のひとはナビも無く凄いというより普通だったから
旅の味わいもいっそう思い出だったろう

それが本来の動物感覚もあった
人間の持つ地球や宇宙のナビゲ−ションの感覚だが
昨今は、ナビ頼り、雨風も関係なく
だから、地球感覚が失われているのはいなめない

都会の電車じゃみな携帯中毒
歩きながら
自転車に乗りながら異常だ

話は戻るが
ここには空海が如意輪観音の周りに配置した
北斗七星を祀る、珍しい星塚があった

また宝物殿には
楠木さんの書状
息子がオヤジを彫った木像など
国宝が無造作にガラスの中にあり
素晴らしいのだが

もう少し空調やカビ対策をしないと
劣化が心配だ

甲賀望月、戸隠忍者屋敷はさらにひどかった
なんとかしないと、日本の宝が朽ちて行く

予算のまえに
管理人やら、掃除の人やら
出来る事があるのに
放置状態

小さな事でも出来る事から
はじめること

楠さんいわく

弓馬武芸の家に生まれ
兵の名を失ってはならないと思うのであれば

毎朝寅の刻におき(朝4時から6時頃)
我が身を浄め
衣服を着替え
諸天に祈りの誠を捧げ
神明を崇敬し
信じて疑ってはならない

いましめを細かい点にまでゆきわたり実践し
邪を除き
愚にならず
痴にならず
心は均等を保っているか
道は通じているか?塞がっているか?

これを独りで知り
独りで思えば
これによって知識がはっきり、よくわかってくるのである

独りで慎むか
慎まないか

独りであることを慎んで
自らの心に欺くことがなければ

礼節や信義もまたその身から外れる事は無い

天地の神明が物体へと乗り移り
智もまた偉大な霊力に導かれて発揮されるものである

およそ天の道を知らない者は、地の道、人の道にもついても
わかっていない者である

天道というものは
陰陽が交互に推し移って寒さや暑さをもたらし
人の生と死、栄誉と屈辱と
これらは全て天道からくるのであり
人のなす業ではない

ここ心を
自分のものとしたとき
天地、宇宙のあらゆるすべての現象を疑わず
この道にも疑いがなくなる

疑いが無いときには
すなわち私がない

私がない時には
すなわち人の心を知る

人の心を知る時
すなわち物事がはっきりとよくわかってくるのである

これを
良知という

兵の恥は
物事を知らないがために
義理というものがわからず

人から信用されず
うまいことを言って相手を騙すことが多く
相手に敬意を払わない事で
身を滅ぼし

勇気がない為に家業を励まないことで
これを四恥という

これらのことを
よく観、分別し常に心を忽せ(ゆるが)にしてはならない

忽せとは
大事な事とは考えず
てきとうにしておくこと

楠正成

実は能の観阿弥(伊賀)と姉が婚姻かんけいにあり
正成さんのご命日1336年7月4日からかぞえ

伊賀の侍、忍、村人が信長の暴挙にこつ然と立ち向かって
戦う1581年の245年前である

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