わたくし

茅ヶ崎に生まれた

目黒のステンレス職人の祖父の家には
何十本もの祖父の手製の水槽と南の生きた魚がいて
ぽこぽこと泡の音に包まれた
スキーの板まで手づくりな祖父

とにかく水を大切にしていたのは戦争の体験から
満州とビルマに赤紙で呼ばれ2度行き
奇跡的に戻れた4年に見てきた時間の
多くを語らぬまま96であの世へいっちまった
人生の先生だった

4歳位から素潜りをしていた
壇ノ浦を望む父の田舎
植物圓の園長で画家の祖父がすむ
山口県の海と真鶴で覚え
魚を生け捕りにし、取っ手のついたビニールぶくろに
電池のエアーポンプをつけ
持ちかえり
家の水槽で飼こと

食べられる魚やたこは食べること
下関の城下町長府の路上でばあさんから
見た事も無い魚を買って食べる事に命を燃やした!
祖母は料理の先生

魚の図鑑ばかり見ていた

小学生までシュノーケルは買ってもらえなかった
理由は実は危ないからだ

水がパイプに残り、波をかぶり
慌てて海水を飲み込んだり、弱い空気を吐く力で水を飛ばせないから

中学になると魚の生き死にが知りたくて
熱帯魚屋でアルバイトをした
時給は0から200円300円
とにかくその道に入るのが早道だと思った

やがて水槽の撮影やTV局やハイビジョンの撮影、BARの設計もたくさん受けたが
生き物の生き死にと
人間の無理な使い捨ての様になりがちな結果に嫌になり
やめた

そして海の学校へいき
ライフガードの資格をオーストラリアでとった

翌年カメラをさげ
オーストラリアへあても無く行き
立ち寄った9時間のバリ島に心を奪われた

日本に戻りダイビングの撮影を始めた
やがて酸素ボンベとカメラを背負い世界中の海で
死にかけ,死ぬのは仕方ないが、ゴムホースや、道具と水圧の負担で
死ぬのは死に切れないと感じ
魚にストロボをあてる行為に恥ずかしくなってやめた

ちょうどその頃14歳で3日だけ
泊めてもらったパラオの海のオヤジが
水中写真展示の青山を歩いていて死んだのがわかった

エネルギーの糸が切れた感じがし
電話をするとまさにその時急に亡くなったと
わずか10秒の電話さえしなかった自分

南の土饅頭の墓で
憂いある命のかかる写真と行動をしたい
戦場?いや
海の苦しい修行を通じ
0から海を知りたい

裸で波へ行け!
ともう一人の自分が予感した

あの日々があり
今がある
一寸先は闇だから
おもしろい

そのわずか光を
自らのやり方で照らせばいい
あとはそこに向かうだけ

誰だって不安と怖さがある
それを自力で越えてみる

黙ってやり続けるうちに
頭の妄想と空想以上の
あ〜これこれ
とにんまり一人で笑う時間が待っている

頭で考えたことなんか
なんの役にも立たない

学校や塾の勉強が
海や山や川と生きなくちゃいけない日本で
無意味だと改めて知る

良い会社に入り
金をかせぐ大人になる為の
落雁の型のような養殖場から
逃げること

誰もいない波の中で
自由に波に飲まれ
遊ぶ事

最高な時間じゃないか

地球の時間は
全てを洗い流し
心をもとに連れ帰る

魂と心身の浄化

自動掃除機や
電子レンジに腹が立つ!
自分でいよう

死んで悔いを
この世に1滴ものこさぬよう

パイプラインで泳いでみたら
やっぱり溺れた!

そうして今この1枚があります

独り旅へ行け!

死んじまった先祖と仲間を大切に

あとは何とかなる!

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