手紙

ビルマからの便り
軍の検閲係に読まれ(この頃は渡辺と印がある)

場所や作戦の事、などは上からマジックで消されたり
削られたりするから
初めから決めておき
斜めに読むとい場所がわかるようにしたとか

ごく一般的な今年書けない戦時郵便
書いてから日本に届くのは2〜3ヶ月後
まれに航空便でビルマへ12日で着いたこともあったようだが

手紙が家族のもとへ祖国についた頃には
戦死している場合も多かった

祖父は琵琶湖の近く
甲賀や水口あたりに先祖がいた
江戸時代は水口久兵衛 が山本に養子に入ったりして

爺さんは築地の波除神社で生まれ
ひいじさんたちは近江八幡から
築地へ来たという
やがて関東大震災で焼け
まだ鮎や亀もいた清流だった目黒川へ

27歳
きっちり
と書けるだけ一生懸命に書いた手紙

思うのは家族のこと故郷のこと

戦争の戦いのことは聞いたことがなく
つtらい体罰や敵や捕虜のことも
今思えば話さないようにしていたのかもしれない

盧溝橋事件を起こした
牟田口廉也の愚行
本人はおめおめ帰りだんまり

その作戦部長の河辺、辻参謀は当時の先輩
なんとか牟田口れんやの(個人的な盧溝橋を巻き起こし日中戦争のひだねの責任)を
錦で飾ってやりたいという
個人的、大本営の強制的で、それに毅然と反対し文句を言えない空気と参謀達の
決断できない決断が、多くの兵隊を犠牲にしたのが大東亜戦争

誰もが反対する、補給も制空権もなく、数1000メートル級の山脈や
未開のジャングルに、シッタン河、チドウィン河などの大河

食料は羊や牛に兵器を運ばせ
いざとなれば殺して食べればいい
チンギスハーンの作戦と言い
牛はすぐに歩かなくなり、羊はさらに無理だった

インドのインパールを落とせばいいという無謀な作戦

物量と合理性で勝る連合軍は
パラシュートやグライダーで物資を運び
日本軍はマラリアや飢餓で消えていった

日本に味方していたビルマ人
チャンドラボースもやがて、日本軍の素行や未来に失望し
反旗を翻し昭和19年以降敗走の渦と無理な突撃で死んでいった

祖父は器用で電気の知識もあり
満州からビルマへ4年
鉄道兵として習志野にあった鉄道5連隊で
訓練したと聞いた

主戦前にはタイにいたので
捕虜にはならず
21年に浦賀に呉で空襲され甲板に大穴のあいた空母葛城で帰ってきた

こうした手紙が70通ある

ビルマから日本へ心を運んだ1枚の手紙

1枚の写真と同じように

残り伝え続ける時間があることを改めて知る

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